断層名 養老断層(志津の撓曲) ようろうだんそう
(しづのとうきょく)
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場所 海津市南濃町志津
概要    養老山地の東側斜面と濃尾平野との境界に沿って南北方向に延びる養老断層は平野側を沈降させ、山地側を隆起させている運動の境界をなしている。上昇する養老山地は激しく浸食されていくことで、その土砂が濃尾平野に流れ出て般若谷扇状地のような扇状地をいろいろな規模で山麓に形成している。南濃町志津において津屋川沿いに広がる沖積地はそうした扇状地の末端よりさらに東側の平野部にあたり、かなり平坦になっているはずの場所である。ところが周囲より2mほど細長く盛り上がっている不自然な地形が長さ約150mにわたり見られる。これは撓曲であり、ここの地下で養老断層が基盤岩類をずらしているが、そのずれが地表付近の柔らかい堆積物には及ばずに撓むだけとなったものである。この付近で行われたボーリング調査では、養老断層は14世紀以降と7~9世紀頃に動いたことがわかっている。それらで起こった地震としては1586(天正13)年の天正地震や745(天平17)年の天平地震がそれぞれ該当すると考えられているが、正確にはわかっていない。
ジオ点描    他の地点での調査によれば、養老断層は約1万年前以降において1,000~2,000年の間隔で活動し、平均して1,000年に約2mの割合というかなり高いA級の活動度(1m以上/1,000年)であり、1回に5~6mの縦ずれを起こしていることが明らかにされている。養老断層の上下移動量は全体で2,000m以上と考えられており、それを生じるためには平均値を用いるとこの断層が約400回も活動したことになる。
文献
  • 須貝俊彦・伏島祐一郎・粟田泰夫・吾妻  崇・苅谷愛彦・鈴木康弘(1999)養老断層の完新世後期の活動履歴-1586年天正地震・745年天平地震震源断層の可能性.地質調査所速報.no.EQ/99/3, 89-102頁.
  • 写真 南濃町志津における養老断層の撓曲帯
    (撮影:林 譲治)
    写真 準備中
    養老断層
    濃尾平野から西方を望むと、養老山地が南北方向に延び、その東側斜面が壁のように立ちはだかり、ほぼ直線的な境界で濃尾平野と接している。その境界に沿って約40kmにわたり養老断層が延びている。養老山地から濃尾平野を経て東方の猿投(さなげ)山地に至る地形上の単位は「濃尾傾動地塊」と呼ばれ、東側が緩やかに上昇し、濃尾平野が沈降していく濃尾傾動運動で作られたものである。沈降していく濃尾平野と上昇していく養老山地との間に養老断層があり、その上下移動量は数百万年前から現在までに2,000m以上に達していると考えられている。沈降していく濃尾平野には木曽三川が運び込んだ大量の土砂が堆積しているから、その2/3ほどは埋められており、実際の養老山地東側の斜面では1/3ほどだけが断層崖として顔をのぞかせていることになる。
    般若谷扇状地
    養老山地が濃尾平野と接する東縁の急崖は、ほぼ南北方向に延びている養老断層が作った断層崖である。この断層運動により急激に上昇隆起している養老山地は激しく浸食されていき、運び出された土砂は、谷が平野部に出るところに堆積して扇状地を形成していく。般若谷扇状地はその典型例である。浸食された土砂は通常の流れでも山地から徐々に運び出されているが、ほとんどは豪雨などで一時的に大量の水がもたらされた時に土石流を引き起こして一気に大量に運び出されて粗粒の土砂として堆積していく。そのため、その上を流れる河川は周囲より高い天井川になり、しかも通常時には水は粗粒の土砂で構成されている堆積物にしみ込んでしまうことになる。この扇状地でも南北に横切る近鉄養老線や国道258号は、涸れ谷となった般若谷の流路の下をトンネルでくぐっている。
    撓曲
    軟らかい地層が厚く地表面を覆っている場合に、その下位にある基盤が断層によりずれても、そのずれが地表まで達せず、撓(たわ)むことでそれを反映させる現象である。
    天正地震
    飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害があり、現白川村で帰雲(かえりぐも)山の大崩壊が発生し、山麓にあった帰雲山城や民家300余戸が埋没し、多数の死者がでたとされる。また、下呂市御厩野(みまやの)にあった大威徳寺(だいいとくじ)が壊滅し、伊勢湾や若狭湾では津波が発生したとされる。これらのことから御母衣(みぼろ)断層、阿寺(あてら)断層、養老断層などの活断層が同時に動いたとされる説、時期はずれたが連続して動いたとされる説などがあり、不明な点が多い。
    天平地震
    説明文の挿入
    地質年代