断層名 三尾河断層(概説) みおごだんそう
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場所 高山市荘川町三尾河 マトバ橋
概要    御母衣(みぼろ)湖の南端付近から南南東へ向かって荘川町三谷(さんだに)、同町三尾河を通り、庄川最上流部に沿って山中峠を抜けて“めいほうスキー場”付近まで北北西~南南東方向に全長約18kmにわたって延びる活断層である。御母衣断層加須良(かずら)断層とともに御母衣断層系を構成し、その南部にあって同じように左横ずれ断層である。縦ずれ運動もしており断層の南西側が隆起している。三尾河において国道にかかるマトバ橋の下に幅200mほどで形成された断層破砕帯が見られ、直線的な河谷や断層鞍部の連なりによる直線的な線状地形模様(リニアメント)や河谷と尾根の左ずれ屈曲も認められる。荘川町寺河戸(てらこうど)において1990(平2)年に行われたトレンチ調査によれば、7,100年前以前、6,300~4,400年前の間、840年前以後の3回にわたり活動しており、最新の活動は1583(天正13)年に天正地震を起こした活動にあたる可能性がある。この調査から、最近の活動間隔は3,600~6,300年とされ、約2,000~3,000年とされる跡津川断層阿寺断層の活動間隔に比べてやや長い。なお、断層の南端部にあたる郡上市明宝(めいほう)水沢上(みぞれ)においては、天正地震の際に発生したとされる大規模な地すべりによる崩落地形がみられ、現在はスキー場駐車場の西俣川対岸にみられるすり鉢状の山体として残されている。
ジオ点描    その実態があまりわかっていない御母衣断層系の中では、トレンチ調査で活動履歴がそれなりに復元されており、その末端付近では地震災害の痕跡と考えられている地形も残されている。さらには明確な断層地形や断層破砕帯も確認されていることから、活動が比較的明らかにされている活断層といえる。それでも近隣の跡津川断層に比べると実態はかなり不明確なままである。
文献
  • 岡田篤正・東郷正美・八木浩司・堤 浩之(2008)1:25,000都市圏活断層図 高山周辺の活断層「高山東部」「高山西部」「高山南西部」解説書.国土地理院技術資料D・1-No.519.
  • 写真 荘川町三尾河のマトバ橋付近から北へ向かう国道158号沿いに三尾河断層が通る
    (撮影:小井土由光)
    写真 荘川町三尾河のマトバ橋下で見られる三尾河断層の断層破砕帯
    (撮影:小井土由光)
    御母衣断層系
    御母衣断層系は、庄川沿いに北北西~南南東方向に延びる御母衣断層、加須良(かずら)断層、三尾河(みおご)断層からなる。この断層系は「庄川断層帯」とも呼ばれ、富山県南西部から白川村,高山市荘川町を経て、郡上市北東部まで全長約70kmにわたる。県内にある同方向に延びる阿寺断層系や根尾谷断層系に匹敵する第一級の活断層系であるが、その活動には謎が多い。とりわけ1586(天正13)年に帰雲(かえりぐも)山の大崩壊をもたらし、崩壊した岩屑によって帰雲城が埋没したとする天正地震の震源とされているが、真相は謎である。それは、かつては“陸の孤島”ともいわれた豪雪地帯の白川郷には生活している人が少なく、歴史上の記録が残りにくいことが背景にある。
    御母衣断層
    御母衣断層は、御母衣断層系の中心をなす断層で全長約24kmにわたり延びる。地形からみると左横ずれ断層で、西側が隆起する傾向にある。白川村木谷において庄川東岸にある河岸段丘面を横切っており、その西側(川側)を約3.4m隆起させて低断層崖を形成している。1990(平2)年にこの断層崖においてトレンチ調査が実施され、この断層が逆断層であり、7,700年前以降と約2,500年前以降の少なくとも2回にわたる断層活動の跡が確認された。後者には、約400年前の天正地震(1586年)をもたらした断層の活動が含まれることになるが、時間幅がかなり大きいために特定できるような年代値とはなっていない。とはいえ、全体として現在も活発に活動しており、地震を発生する危険度の高い活断層であることは明確となっている。
    加須良断層
    加須良断層は、御母衣(みぼろ)断層系の北部にあり、富山県南西部から白川村馬狩(まがり)付近にかけて、北北西~南南東方向に30km余りにわたり延びる。明瞭な左横ずれ断層の地形を示し、断層の東側が上昇傾向にある。御母衣断層系の御母衣断層や三尾河(みおご)断層が1586(天正13)年に動いて天正地震を起こした可能性を残していることから、加須良断層もその時に動いた可能性がある。室町時代の僧蓮如上人が布教のためにこの地を訪れた際に、本流の庄川沿いではなく、境川から桂に入り、おのえ峠、加須良、蓮如峠を経て、白川村馬狩・鳩谷(はとがや)に至った。すべて加須良断層に沿って通ったことになる。当時の庄川沿いには巨岩の崖が続き、白川歩危(ほき)とよぶ危険な川だったからである。
    天正地震
    飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害があり、現白川村で帰雲(かえりぐも)山の大崩壊が発生し、山麓にあった帰雲山城や民家300余戸が埋没し、多数の死者がでたとされる。また、下呂市御厩野(みまやの)にあった大威徳寺(だいいとくじ)が壊滅し、伊勢湾や若狭湾では津波が発生したとされる。これらのことから御母衣(みぼろ)断層、阿寺(あてら)断層、養老断層などの活断層が同時に動いたとされる説、時期はずれたが連続して動いたとされる説などがあり、不明な点が多い。
    跡津川断層
    跡津川断層は、富山県の立山付近から南西へ向かって、飛騨市神岡町、宮川町、河合町を通り抜け、白川村の天生(あもう)峠付近までの全長約60kmにも及ぶ大断層であり、岐阜県における大規模な活断層系である阿寺断層系や根尾谷断層系などとともに日本を代表する活断層系の一つである。人工衛星画像でもその直線状の谷地形が明瞭に識別でき、大きく見ると一本の断層線として示されるが、実際には数本の断層が平行して走っていたり、枝分かれしたりしている。河川流路の折れ曲がりや断層崖などの断層地形が各所に残り、断層上のくぼ地には池ヶ原湿原や天生湿原のような湿原が形成されている。この断層は40万~70万年くらい前から活動を始めたとされているが、詳しいことはまだわかっていない。江戸時代末期の1858(安政5)年に起きた飛越地震は、跡津川断層が動いたことで起きたもので、断層沿いに多大な被害をもたらした。
    阿寺断層
    阿寺断層系は、中津川市馬籠(まごめ)付近から北西へ向かって、同市坂下、付知町、加子母(かしも)を経て、下呂市萩原町の北方へ至る全長約70kmにも及ぶ日本でも第一級の活断層系である。ほかの大規模な活断層系と同様に、複数の断層が平行にあるいは枝分れして走っている。それらのうち、おおよそ中津川市と下呂市の境界にある舞台峠付近より南に分布する断層群を阿寺断層と呼び、それより北に分布する断層群にはそれぞれ別の名称がつけられている。大きくみると、阿寺断層系は、その北東側にある標高1500~1900mの山稜部を持つ比較的なだらかな阿寺山地とその南西側にある標高1000m前後の美濃高原との境界部にある断層帯で、両者はもともと一続きの地形であり、地形上の高度差700~800mがそのまま断層による縦ずれ移動量を示すが、それよりも10倍近くの大きさで左横ずれ移動量をもち、それは断層を境に河川の流路が8~10kmも隔てて屈曲していることに表れている。
    地質年代