断層名 梅原地震断層(深瀬の湖) うめはらじしんだんそう
(ふかせのみずうみ)
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場所 山県市深瀬
概要    旧高富町の中心部では、その北部において梅原断層が西北西~東南東方向に延びており、それにほぼ直行する南北方向に鳥羽川が南流している。1891(明24)年に濃尾地震を起こした際には、ここで梅原地震断層がその南側を約1m上昇させる運動をした。そのため南流する鳥羽川が堰き止められたことで、断層の北側一帯に「深瀬の湖」と呼ばれる湖が出現した。この湖の状態は35日間も続き、その後も長く排水の悪い状態が続いたため、鳥羽川の東側に排水路(新川)を掘り、断層より2kmほど下流で鳥羽川に合流させるようにして鳥羽川より東側の排水状況を改善する工夫がなされた。さらに1956(昭31)年には沈降した鳥羽川の河床をかさ上げし、鳥羽川の西側地域の排水を目的として排水路を鳥羽川の下にくぐらせ、立体交差させて東側の新川に流すようにした。この立体交差(これを“伏越(ふせこし)”という)と新川という人工河川は、大地がわずかに動いただけで人間の生活環境にもたらされた大きな影響を解消するために設けられた施設ということになる。こうした施設は長年にわたり維持されてきたが、周辺の立地環境の変化にともなって排水能力の低下が著しくなり、現在はさらに大幅な河川改修がなされており、立体交差部であった場所より上流側の鳥羽川は新川に、東側から立体交差部へ流れ込んでいた水は鳥羽川にそれぞれ流れ込むようにして立体交差の施設はなくなっている。
ジオ点描    大地が縦ずれを起こし、しかもわずか1mの段差が一瞬にして河川を堰き止めるように形成され、それにより人間の生活する場所が水没してしまった。それが事の始まりである。水没域を取り除くために新たな河川を設け、さらに河川の立体交差まで施した。そこまでの大がかりな労力を割いてもまだ元の状態にはならず、さらに河川の分離作業をしなければならないところまで至ったことになる。
文献
  • 写真 山県市高木において当初つくられた鳥羽川と新川の立体交差
    (撮影:小野康雄)
    写真 山県市高木における河川改修中の鳥羽川立体交差部(2017年5月現在)
    (撮影:小井土由光)
    梅原断層
    梅原断層は根尾谷断層系の南東端を構成し、山県市南東部から岐阜市北東部、関市南部を経て坂祝(さかほぎ)町に至る全長約35kmにわたって延びる。ただし、根尾谷断層と異なり、ほとんどの地域で沖積層の下を通過しているため、それに隠されて実態は把握しにくかった。1891(明24)年に濃尾地震を起した際に形成された梅原地震断層が旧伊自良村から関市を経て美濃加茂市に至る低地に沿って変位を生じさせたことで、その位置が明確になった。梅原地震断層は根尾谷地震断層と同時に動いているが、性格はかなり異なり、全体を通じて横ずれ運動よりも南西側を隆起させる縦ずれ運動が卓越しており、その量は最大で約2.4mであった。
    濃尾地震
    濃尾地震は根尾谷断層系の温見(ぬくみ)断層、根尾谷断層、梅原断層などが同時に動いたことで発生し、内陸地震としては国内で最大級の規模をもつ地震である。明治時代に入ってから起こったこともあり、大地に現れた地震断層ばかりでなく、被害の状況も詳細な記録として残されている。この地震により、美濃地方で死者4,889人、負傷者12,311人、全壊70,048戸、半壊30,994戸という被害がもたらされた。全国規模でも、死者7,273人という多大な被害を受けたばかりでなく、当時としての先端技術であった鉄道や煉瓦作りの建物に甚大な被害を受けたことで、富国強兵に邁進していた明治政府にとって大きな打撃となった。この災害を契機として耐震構造への関心が強まり、その研究が大きく進展していったり、この地震後に震災予防調査会が設置され、日本における本格的な地震研究がスタートした。



    地質年代