断層名 華立断層(概説) はなたてだんそう
  場所 多治見市大沢町 高社山(たかもりやま)
   概 要
   可児市南部から多治見市西部にかけての愛知県境をなす山地部の北縁~北東縁~東縁を取り囲むようにふくらんだ曲線を描いて全長約12kmにわたり延びる断層で、比高100~200mの明瞭な断層崖をつくる。断層崖の下では崩壊物で覆われて断層自体は観察できないことが多いが、わずかに確認できる地点では南西側の基盤の美濃帯堆積岩類が北東側に分布する土岐砂礫層の上に押し上げていたり、土岐砂礫層が断層の近くで引きづり上げられて急傾斜となっていたり、南西側から北東側へのし上がる逆断層であることが明らかにされている。また、断層を横切る河川の流路が屈曲して左横ずれを示しており、大きく見ると根尾谷断層系と同じ運動傾向を示している。なお、1891(明24)年に濃尾地震を起こした際にはこの断層は動いていないが、その北西延長部において古瀬(こぜ)地震断層が動いている。
 
可児市高根町の高根山から望む華立断層の断層崖
(撮影:鹿野勘次)
 
  ジオ点描
   華立断層の断層崖の上と下の両方に瀬戸層群の土岐砂礫層が30m以下の厚さで分布しており、同層が堆積した後に断層崖が形成されたことになる。その平均した分布高度差は約150mであり、仮に1回の断層活動で約1mの高度差を生じるとすると、土岐砂礫層形成後として想定される150万年前以降にこの高度差を生じたとしたら、平均して1万年に1回の間隔で隆起運動があったことになる。
多治見市大針町における国道248号と華立断層(矢印方向)
(撮影:木澤慶和)
 
  文 献 鹿野勘次(1998)可児市南方における華立断層の地質と変位.岐阜県博物館研究報告,19号,25-30頁.  
美濃帯堆積岩類
美濃帯は、飛騨外縁帯の南側にあってかなり幅広く分布する地質帯で、岐阜県内でも広範囲にわたる地域を占める。そこは、古生代石炭紀から中生代白亜紀最前期にかけての時期にチャート・石灰岩・砂岩・泥岩・礫岩などの海底に堆積した堆積岩類と海底に噴出した緑色岩(玄武岩質火山岩類)でおもに構成されている。下図に示すように、海洋プレートの上に噴出した玄武岩質火山岩類は海底や火山島(海山)を形成して、その上にチャートや石灰岩・珪質泥岩などを徐々に堆積させながら大陸へ向かって年間数cmほどの速さで移動していく。海洋プレートは海溝部で大陸の下へ沈み込んでいくが、堆積物はいっしょに沈み込むことができず、はぎ取られたり、大陸側から運び込まれた砂岩・泥岩などとともに大陸側へ押し付けられ、混じり合って複合体(コンプレックス)を作りあげていく。こうした作用を付加作用といい、それにより形成された堆積物は付加体堆積物と呼ばれ、これまでそれらを総称して「美濃帯中・古生層」、「美濃帯中生層」、「美濃帯堆積岩コンプレックス」などといろいろな表現で呼ばれてきたが、ここではこれらを「美濃帯堆積岩類」と呼ぶ。それらは、それまで順に重なっていた地層が付加作用にともなって低角の断層を境にして屋根瓦のように繰り返して覆うように重なったり、複雑に混じりあったメランジュと呼ばれる地質体を構成し、整然とした地層として順番に連続して重なるようなことがほとんどない。そのため全域にわたり個々の地層名を付して表現することがむずかしいため、ここでは構成岩石の種類(岩相)によって表現する。これらの構成岩石は単独でも複数の組合せでもある程度の大きさを持つ地質体を形成しており、その大きさはcmオーダーの礫からkmオーダーの岩体までさまざまである。これらは岩相、形成時期、形成過程などの類似性から複数の地質ユニットに区分され、ユニット間は衝上断層で接することが多いが、その区分による表現はここでは用いない。
土岐砂礫層
瀬戸層群の上部層を構成し、東濃地方の広大な東濃準平原を形成した河川が運び込んだ大量の礫により形成された砂礫層で、かなり広範囲にわたって分布する。層厚は数十~100mである。場所により礫種に差異があり、おもに濃飛流紋岩からなるタイプとおもに美濃帯堆積岩類のチャートからなるタイプがあるが、内部での層序や層相の関係はよくわかっていない。礫径は濃飛流紋岩で10cm前後、美濃帯堆積岩類で数~20cmであり、ほとんどが円磨度の進んだ円礫からなる。最大の特徴は、チャート礫を除いて、含まれている礫が風化してきわめて軟らかくなっていることであり、チャート礫だけが堅固なまま残されているため、それだけを含む礫層のように見える。
逆断層
大地に力が加わって壊され、特定の面に沿ってずれて食い違いが生じた状態を断層といい、食い違いが垂直方向に生じた「縦ずれ断層」と水平方向に生じた「横ずれ断層」に大別される。そのうち縦ずれ断層において、引っ張る力により生じた場合を「正断層」、押す力により生じた場合を「逆断層」という。これを実際に見える断層のずれ方で表現すると、前者は断層面を境に上側(上盤)が下側(下盤)に対してずれ下がる場合、後者はずれ上がる場合となる。
根尾谷断層系
「根尾谷断層系」は、全長約80kmにもおよぶ長大な活断層群の総称であり、何本もの活断層で構成された長大な活断層帯を形成している。それらのうち、岐阜・福井県境の能郷(のうご)白山(標高1617m)付近から根尾川沿いに南下して岐阜市北端部へ至る、おおよそ1本の断層線で示される活断層を「根尾谷断層」と呼ぶ。根尾谷断層系の活断層にほぼ沿って1891(明24)年に動いた地震断層群の総称を「濃尾地震断層系」と呼び、そのうちの1本として根尾谷断層も動き「根尾谷地震断層」を形成した。根尾谷断層系は、何回も活動を繰り返してきた中でとりあえず最後の大きな活動として濃尾地震断層系を形成し、そのときの震動が濃尾地震である。根尾谷断層系を構成する各活断層は今後も活動し続けるはずであり、決して最後ではないから、濃尾地震断層系は“とりあえず最後の活動”となる。
濃尾地震
濃尾地震は根尾谷断層系の温見(ぬくみ)断層、根尾谷断層、梅原断層などが同時に動いたことで発生し、活断層型(直下型)地震としては国内で最大級の規模をもつ地震である。明治時代に入ってから起こったこともあり、大地に現れた地震断層ばかりでなく、被害の状況も詳細な記録として残されている。この地震により、美濃地方で死者4,889人、負傷者12,311人、全壊70,048戸、半壊30,994戸という被害がもたらされた。全国規模でも、死者7,273人という多大な被害を受けたばかりでなく、当時としての先端技術であった鉄道や煉瓦作りの建物に甚大な被害を受けたことで、富国強兵に邁進していた明治政府にとって大きな打撃となった。この災害を契機として耐震構造への関心が強まり、その研究が大きく進展していったり、この地震後に震災予防調査会が設置され、日本における本格的な地震研究がスタートした。
古瀬地震断層
梅原断層の南東端は坂祝(さかほぎ)町酒倉(さかくら)とされ、それより南東への追跡はできないが、1891(明24)年に濃尾地震を起こした際に酒倉より南へ約3km離れた可児市古瀬で水田の表面に北西~南東方向に地震断層が形成された。きわめて局地的であるが、断層の北東側がやや低下し、北西へ1~1.2mの左横ずれを示したとされている。地震断層は一般に既存の活断層が再活動することで形成され、まったく古傷をもたない場所に突然現れることはないと考えられている。この場合も、明確に確認されなかっただけで、同じ位置に古傷の活断層が存在していたと考えるのが一般的である。ただし、その断層は、北西方へ延長しても梅原断層とつながらない位置関係にあり、むしろ南東方に延長すると華立(はなたて)断層につながるため、濃尾地震の際には華立断層の北西端部が活動して地震断層を形成したという見方もある。
地質年代