断層名 梅原地震断層
(梅原の湖沼)
うめはらじしんだんそう
(うめはらのこしょう)
  場所 山県市梅原
   概 要
   山県市の梅原地区は旧高富町の西部に位置し、断層の名称が採られた場所であり、比較的広い水田の中を北西~南東方向に横切って梅原断層が延びている。1891(明24)年に濃尾地震を起こした際に、ここでは断層の南西側が隆起したために南流する水路が塞がれたことで、そこに深さ1~3mで約25haにも及ぶ湖沼が形成された。ここで掘られたボーリング資料からは過去にも断層運動によって何度も沈降域(湖沼)が形成されたことを示す堆積物が得られている。それらから求められた年代測定値によると梅原断層の活動間隔は15,000~30,000年を示し、根尾谷断層のそれが3,000~4,000年であることに比べると明らかに一桁大きい(長い)ことを示している。これは2つの断層の活動間隔が大きく異なり、根尾谷断層が動いても梅原断層は動かない場合のほうが多かったことを意味している。濃尾地震の時には活動間隔の異なる2つの断層が同時に動いたことで、地震の規模がいっそう大きくなったことになる。
 
山県市梅原の湖沼跡に広がる耕作地
(撮影:小井土由光)
 
  ジオ点描
   断層がどのくらいの間隔で活動を繰り返していくのかを厳密に決めることはできない。もともと断層はきちんと等間隔に動いているわけではなく、求められる年代値にも幅があることで、実際には数千年に1回あるいは数万年に1回といったレベルでしか表現できない。これが厳密にわかるようになったら地震予知に苦労する必要はなくなるが、それはほぼ無理なことと理解するべきである。
 
  文 献  
梅原断層
梅原断層は根尾谷断層系の南東端を構成し、山県市南東部から岐阜市北東部、関市南部を経て坂祝(さかほぎ)町に至る全長約35kmにわたって延びる。ただし、根尾谷断層と異なり、ほとんどの地域で沖積層の下を通過しているため、それに隠されて実態は把握しにくかった。1891(明24)年に濃尾地震を起した際に形成された梅原地震断層が旧伊自良村から関市を経て美濃加茂市に至る低地に沿って変位を生じさせたことで、その位置が明確になった。梅原地震断層は根尾谷地震断層と同時に動いているが、性格はかなり異なり、全体を通じて横ずれ運動よりも南西側を隆起させる縦ずれ運動が卓越しており、その量は最大で約2.4mであった。
根尾谷断層
根尾谷断層は、全長約80kmにわたり複数の活断層群からなる根尾谷断層系のうち、岐阜・福井県境にある能郷(のうご)白山(標高1617m)付近からほぼ根尾川沿いに南下し、岐阜市北端部に至る約35kmの長さをもつ活断層である。全体として左横ずれ変位が卓越し、北東側が沈下する縦ずれ変位をともなう運動を起こしている。根尾谷断層系のほぼ中央において比較的活発に動いてきた断層であることもあり、しばしば「根尾谷断層系」とまったく同義に使われて混乱を招いており、厳密には明確に区別して扱う必要がある。1891(明24)年にとりあえず最後の活動を起こして濃尾地震をもたらし、その際に形成された地表の変位を「根尾谷地震断層」と呼び、その代表例が国の特別天然記念物に指定されている通称「水鳥(みどり)の断層崖」である。これも単に“根尾谷断層”と呼ばれることが多く、日本地質学会もここを“根尾谷断層”として「日本の地質百選」に選定している。
濃尾地震
濃尾地震は根尾谷断層系の温見(ぬくみ)断層、根尾谷断層、梅原断層などが同時に動いたことで発生し、活断層型(直下型)地震としては国内で最大級の規模をもつ地震である。明治時代に入ってから起こったこともあり、大地に現れた地震断層ばかりでなく、被害の状況も詳細な記録として残されている。この地震により、美濃地方で死者4,889人、負傷者12,311人、全壊70,048戸、半壊30,994戸という被害がもたらされた。全国規模でも、死者7,273人という多大な被害を受けたばかりでなく、当時としての先端技術であった鉄道や煉瓦作りの建物に甚大な被害を受けたことで、富国強兵に邁進していた明治政府にとって大きな打撃となった。この災害を契機として耐震構造への関心が強まり、その研究が大きく進展していったり、この地震後に震災予防調査会が設置され、日本における本格的な地震研究がスタートした。


地質年代