跡津川断層
跡津川断層は、富山県の立山付近から南西へ向かって、飛騨市神岡町、宮川町、河合町を通り抜け、白川村の天生(あもう)峠付近までの全長約60kmにも及ぶ大断層であり、岐阜県における大規模な活断層系である阿寺断層系や根尾谷断層系などとともに日本を代表する活断層系の一つである。人工衛星画像でもその直線状の谷地形が明瞭に識別でき、大きく見ると一本の断層線として示されるが、実際には数本の断層が平行して走っていたり、枝分かれしたりしている。河川流路の折れ曲がりや断層崖などの断層地形が各所に残り、断層上のくぼ地には池ヶ原湿原や天生湿原のような湿原が形成されている。この断層は40万~70万年くらい前から活動を始めたとされているが、詳しいことはまだわかっていない。江戸時代末期の1858(安政5)年に起きた飛越地震は、跡津川断層が動いたことで起きたもので、断層沿いに多大な被害をもたらした。
飛越地震
飛騨北部・越中で被害が大きく、とくに岐阜県内では跡津川断層沿いに被害が集中しており、全壊319戸、死者203名とされ、山崩れも多かった。とくに断層の南東側に比べて北西側で家屋の倒壊が多く、断層が北側から南側へ突き上げて動いたために北東側で震動が大きくなった。富山県側では、常願寺川の上流が山崩れで堰き止められ、のちにそれが決壊して富山平野で大洪水を起こした。
御母衣断層
御母衣断層は、御母衣断層系の中心をなす断層で全長約24kmにわたり延びる。地形からみると左横ずれ断層で、西側が隆起する傾向にある。白川村木谷において庄川東岸にある河岸段丘面を横切っており、その西側(川側)を約3.4m隆起させて低断層崖を形成している。1990(平2)年にこの断層崖においてトレンチ調査が実施され、この断層が逆断層であり、7,700年前以降と約2,500年前以降の少なくとも2回にわたる断層活動の跡が確認された。後者には、約400年前の天正地震(1586年)をもたらした断層の活動が含まれることになるが、時間幅がかなり大きいために特定できるような年代値とはなっていない。とはいえ、全体として現在も活発に活動しており、地震を発生する危険度の高い活断層であることは明確となっている。
天正地震
飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害があり、現白川村で帰雲(かえりぐも)山の大崩壊が発生し、山麓にあった帰雲山城や民家300余戸が埋没し、多数の死者がでたとされる。また、下呂市御厩野(みまやの)にあった大威徳寺(だいいとくじ)が壊滅し、伊勢湾や若狭湾では津波が発生したとされる。これらのことから御母衣(みぼろ)断層、阿寺(あてら)断層、養老断層などの活断層が同時に動いたとされる説、時期はずれたが連続して動いたとされる説などがあり、不明な点が多い。
阿寺断層
中津川市加子母は約10kmにわたり北西~南東方向に流れる加子母川の谷に沿って広がり、そこに阿寺断層が延びる。阿寺断層系のうち、この付近から中津川市馬籠(まごめ)付近までを阿寺断層といい、下呂市との境にある舞台峠周辺から北へは、小和知(おわち)断層、湯ヶ峰断層、下呂断層、萩原断層などに枝分れしていく。その兆候は加子母下桑原付近でみられ、阿寺断層はおおむね3列にわたり延びる。最も南西側の断層は加子母川沿いの谷底低地にあり、ほとんどすべてが現河床の堆積物で埋っている。真ん中の断層は北東側の山地と谷底低地の境界にある。谷底低地から百数十m程度の高さで山列が連なり、それらの平地側には三角末端面がある。最も北東側の断層は山地の中腹を通り、そこには断層鞍部が並んでおり、この断層をそのまま北西へ延ばすと小和知断層につながる可能性がある。加子母の谷から見上げる阿寺山地は、阿寺断層が作り出した比高800mにもなる壮大な断層崖に相当する。
地質年代