断層名 御母衣断層(概説) みぼろだんそう
  場所 白川村木谷(きたに)
   概 要
   御母衣断層系の中央部をなす断層で、白川村のゾウゾウ山(標高952m)北方にあたる庄川の椿原ダム左岸(西岸)付近から馬狩(まかり)谷に沿って南へ延び、馬狩地区南方の峠を越えて鳩谷(はとがや)ダムから庄川沿いに平瀬地区、御母衣ダムを経て、その南端部の落部(おちべ)川合流部付近まで北北西~南南東方向に全長約24kmにわたり延びる。「白川断層」と呼ぶこともある。尾根や谷の屈曲などの地形からみると左横ずれ断層であり、西側が隆起する傾向にある。白川村木谷において庄川東岸にある河岸段丘面を横切っており、その西側(川側)を約3.4m隆起させて低断層崖を形成している。1990(平2)年にこの断層崖においてトレンチ調査が実施され、この断層が逆断層であり、7,700年前以降と約2,500年前以降の少なくとも2回にわたる断層活動の跡が確認された。後者には、約400年前の天正地震(1586年)をもたらした断層の活動が含まれることになるが、時間幅がかなり大きいために特定できるような年代値とはなっていない。とはいえ、全体として現在も活発に活動しており、地震を発生する危険度の高い活断層であることは明確となっている。
 
白川村木谷における御母衣断層の低断層崖
(撮影:小井土由光)
 
  ジオ点描
   なかなか実態がつかみにくい御母衣断層系の中において、人家の比較的多い地域を通っていることもあり、いくつかの地点で活動の痕跡が確認されている。しかし、比較的正確な記録が残されやすい江戸時代後期以降に地震災害が起きておらず、さらにはそれ以前においても記録を残せる環境が揃っていなかった地域であったことが注目度を下げてしまう理由になっているようである。
 
  文 献 後藤秀昭(2019):1:25,000活断層図 牛首断層帯、跡津川断層帯及び庄川断層帯とその周辺「白川村」解説書.国土地理院技術資料D1-No.932,11p.  
御母衣断層系
御母衣断層系は、庄川沿いに北北西~南南東方向に延びる御母衣断層、加須良(かずら)断層、三尾河(みおご)断層からなる。この断層系は「庄川断層帯」とも呼ばれ、富山県南西部から白川村,高山市荘川町を経て、郡上市北東部まで全長約70kmにわたる。県内にある同方向に延びる阿寺断層系や根尾谷断層系に匹敵する第一級の活断層系であるが、その活動には謎が多い。とりわけ1586(天正13)年に帰雲(かえりぐも)山の大崩壊をもたらし、崩壊した岩屑によって帰雲城が埋没したとする天正地震の震源とされているが、真相は謎である。それは、かつては“陸の孤島”ともいわれた豪雪地帯の白川郷には生活している人が少なく、歴史上の記録が残りにくいことが背景にある。
御母衣ダム
庄川にある水力発電専用のダムで、第二次世界大戦後の電力不足を解消するために、国家的プロジェクトとして建設された日本最初の大型ロックフィルダムである。堤体基礎は庄川火山-深成複合岩体のシツ谷層からなる。ただし、活断層という認識がなかった時代に建設されたこともあり、堤体の右岸(東岸)寄りの位置を御母衣断層が庄川沿いに走っている。建設計画の段階でこの断層の分布や性状が確認されたことから、外国人専門家の意見などをもとに、支持力に対する優位性と遮水工の確実性、ダム近傍から建設材料が得られることからダム型式をロックフィルダム型式とした。堤体材料は、上流2km左岸(西岸)に分布する福島谷花崗岩をロック材料に、同3km右岸(東岸)に分布する秋町花崗岩の風化部を土質遮水壁材料とした。現在もそれらの採掘跡が確認できる。
天正地震
飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害があり、現白川村で帰雲(かえりぐも)山の大崩壊が発生し、山麓にあった帰雲山城や民家300余戸が埋没し、多数の死者がでたとされる。また、下呂市御厩野(みまやの)にあった大威徳寺(だいいとくじ)が壊滅し、伊勢湾や若狭湾では津波が発生したとされる。これらのことから御母衣(みぼろ)断層、阿寺(あてら)断層、養老断層などの活断層が同時に動いたとされる説、時期はずれたが連続して動いたとされる説などがあり、不明な点が多い。


地質年代