断層名 御母衣断層系(概説) みぼろだんそうけい
  場所
   概 要
   大きくみると両白山地と飛騨高原の境界付近に位置し、富山県南西部から白川村、高山市荘川町を経て、郡上市北東部まで北北東~南南西方向に延びる全長約70kmにわたる断層系である。北から加須良(かずら)断層御母衣断層三尾河(みおご)断層からなり、「庄川断層帯」とも呼ばれる。左横ずれ断層を主体とし、加須良断層では東側隆起が、御母衣断層と三尾河断層では西側隆起がそれぞれみられる。県内にある同方向に延びる阿寺断層系根尾谷断層系に匹敵する第一級の活断層系であるが、その活動には謎が多い。とりわけ1586(天正13)年に帰雲(かえりぐも)山の大崩壊をもたらし、崩壊した岩屑によって帰雲城が埋没したとする天正地震の震源とされているが、真相は謎である。その背景にはかつては“陸の孤島”ともいわれた豪雪地帯の白川郷など、生活している人が少なく、歴史上の記録が残りにくい地域を通っていることがある。
 
御母衣ダム下流東岸に露出している御母衣断層の破砕帯
(撮影:鹿野勘次)
 
  ジオ点描
   阿寺断層系、根尾谷断層系、跡津川断層はいずれも全長70~80kmに及ぶ長大な断層系であり、日本を代表する大規模な活断層系であり、それぞれに痕跡や活動履歴を残している。御母衣断層系もこれらとほぼ同じ規模をもち、似たような活動をしてきたと考えてよいはずであるが、他三者と比べてその実態はかなり不明なままである。やはり人目に触れる機会が少ないという不利な要因が影響しているようである。
 
  文 献 杉山雄一(2011)御母衣断層系と1586年天正地震.活断層研究,35号,57〜65頁.  
御母衣断層
御母衣断層は、御母衣断層系の中心をなす断層で全長約24kmにわたり延びる。地形からみると左横ずれ断層で、西側が隆起する傾向にある。白川村木谷において庄川東岸にある河岸段丘面を横切っており、その西側(川側)を約3.4m隆起させて低断層崖を形成している。1990(平2)年にこの断層崖においてトレンチ調査が実施され、この断層が逆断層であり、7,700年前以降と約2,500年前以降の少なくとも2回にわたる断層活動の跡が確認された。後者には、約400年前の天正地震(1586年)をもたらした断層の活動が含まれることになるが、時間幅がかなり大きいために特定できるような年代値とはなっていない。とはいえ、全体として現在も活発に活動しており、地震を発生する危険度の高い活断層であることは明確となっている。
加須良断層
加須良断層は、御母衣(みぼろ)断層系の北部にあり、富山県南西部から白川村馬狩(まがり)付近にかけて、北北西~南南東方向に30km余りにわたり延びる。明瞭な左横ずれ断層の地形を示し、断層の東側が上昇傾向にある。御母衣断層系の御母衣断層や三尾河(みおご)断層が1586(天正13)年に動いて天正地震を起こした可能性を残していることから、加須良断層もその時に動いた可能性がある。室町時代の僧蓮如上人が布教のためにこの地を訪れた際に、本流の庄川沿いではなく、境川から桂に入り、おのえ峠、加須良、蓮如峠を経て、白川村馬狩・鳩谷(はとがや)に至った。すべて加須良断層に沿って通ったことになる。当時の庄川沿いには巨岩の崖が続き、白川歩危(ほき)とよぶ危険な川だったからである。
三尾河断層
三尾河断層は、御母衣(みぼろ)断層系の南部において北西~南東方向に全長約18kmにわたって延びる。同じ御母衣断層系の御母衣断層や加須良(かずら)断層と同じように左横ずれ断層である。また、縦ずれ運動もしており、断層の南西側が隆起している。高山市荘川町寺河戸(てらこうど)において1990(平2)年に行われたトレンチ調査によれば、三尾河断層は7,100年前以前、6,300~4,400年前の間、840年前以後の3回にわたり活動しており、最新の活動は天正地震(1586年)を起こした活動にあたる可能性がある。この調査から、最近の活動間隔は3,600~6,300年とされ、約2,000~3,000年とされる跡津川断層や阿寺断層の活動間隔に比べ、三尾河断層のそれはやや長い。こうした繰り返し起こった断層活動により200mほどの幅で形成された断層破砕帯が荘川町三尾河のマトバ橋の下で見られる。
阿寺断層系
阿寺断層系は、中津川市馬籠(まごめ)付近から北西へ向かって、同市坂下、付知町、加子母(かしも)を経て、下呂市萩原町の北方へ至る全長約70kmにも及ぶ日本でも第一級の活断層系である。ほかの大規模な活断層系と同様に、複数の断層が平行にあるいは枝分れして走っている。それらのうち、おおよそ中津川市と下呂市の境界にある舞台峠付近より南に分布する断層群を阿寺断層と呼び、それより北に分布する断層群にはそれぞれ別の名称がつけられている。大きくみると、阿寺断層系は、その北東側にある標高1500~1900mの山稜部を持つ比較的なだらかな阿寺山地とその南西側にある標高1000m前後の美濃高原との境界部にある断層帯で、両者はもともと一続きの地形であり、地形上の高度差700~800mがそのまま断層による縦ずれ移動量を示すが、それよりも10倍近くの大きさで左横ずれ移動量をもち、それは断層を境に河川の流路が8~10kmも隔てて屈曲していることに表れている。
根尾谷断層系
「根尾谷断層系」は、全長約80kmにもおよぶ長大な活断層群の総称であり、何本もの活断層で構成された長大な活断層帯を形成している。それらのうち、岐阜・福井県境の能郷(のうご)白山(標高1617m)付近から根尾川沿いに南下して岐阜市北端部へ至る、おおよそ1本の断層線で示される活断層を「根尾谷断層」と呼ぶ。根尾谷断層系の活断層にほぼ沿って1891(明24)年に動いた地震断層群の総称を「濃尾地震断層系」と呼び、そのうちの1本として根尾谷断層も動き「根尾谷地震断層」を形成した。根尾谷断層系は、何回も活動を繰り返してきた中でとりあえず最後の大きな活動として濃尾地震断層系を形成し、そのときの震動が濃尾地震である。根尾谷断層系を構成する各活断層は今後も活動し続けるはずであり、決して最後ではないから、濃尾地震断層系は“とりあえず最後の活動”となる
帰雲山の大崩壊
白川村保木脇(ほきわき)の庄川対岸にあたる帰雲山(標高1622m)の西側斜面には、現在も大きくえぐれた崖がみられる。大崩壊の起きている帰雲山の山稜部周辺はすべて庄川火山-深成複合岩体を構成する火山岩類であり、比較的堅硬な岩石が分布している。この場所に大崩壊をもたらすような大規模な破砕帯などの存在は確認されていないが、この地域周辺では広範囲にわたり白川花崗岩類(鳩ヶ谷・平瀬岩体)に貫かれており、その境界部にしばしば熱水変質帯をともなうことから、それが火山岩類を脆弱化させて斜面崩壊をもたらした可能性がある。崩壊土砂の量は約2,500万?と見積もられており、それらは岩屑なだれとなって谷を流れ下り、庄川沿いにあったとされる帰雲城を埋没させ、さらに庄川を3kmほど流れ下り、約20日にわたりせき止め、上流約12kmまで堪水域を作ったとされている。この崩壊については多くの伝聞が残されているが、当時の文献の記述があいまいであるために、帰雲城の存在も含めて真相は不明のままである。
天正地震
飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害があり、現白川村で帰雲(かえりぐも)山の大崩壊が発生し、山麓にあった帰雲山城や民家300余戸が埋没し、多数の死者がでたとされる。また、下呂市御厩野(みまやの)にあった大威徳寺(だいいとくじ)が壊滅し、伊勢湾や若狭湾では津波が発生したとされる。これらのことから御母衣(みぼろ)断層、阿寺(あてら)断層、養老断層などの活断層が同時に動いたとされる説、時期はずれたが連続して動いたとされる説などがあり、不明な点が多い。
跡津川断層
跡津川断層は、富山県の立山付近から南西へ向かって、飛騨市神岡町、宮川町、河合町を通り抜け、白川村の天生(あもう)峠付近までの全長約60kmにも及ぶ大断層であり、岐阜県における大規模な活断層系である阿寺断層系や根尾谷断層系などとともに日本を代表する活断層系の一つである。人工衛星画像でもその直線状の谷地形が明瞭に識別でき、大きく見ると一本の断層線として示されるが、実際には数本の断層が平行して走っていたり、枝分かれしたりしている。河川流路の折れ曲がりや断層崖などの断層地形が各所に残り、断層上のくぼ地には池ヶ原湿原や天生湿原のような湿原が形成されている。この断層は40万~70万年くらい前から活動を始めたとされているが、詳しいことはまだわかっていない。江戸時代末期の1858(安政5)年に起きた飛越地震は、跡津川断層が動いたことで起きたもので、断層沿いに多大な被害をもたらした。
地質年代