マサ化
地下で固結した花崗岩が地表に露出したことで気温の変化により岩石の表面で膨張収縮をわずかながらでも繰り返し、岩石中の鉱物が互いに接している完晶質岩であるために膨張率の違いが鉱物単位で歪みを生じ、ばらばらにされて砂状に破壊されていく現象である。もともとは「真砂土(まさど・まさつち)」という園芸用土壌の用語として使われているが、それをもたらす風化作用に拡大して使われるようになっている。
伊奈川花崗岩
中部地方の領家帯を中心に美濃帯南部も含めてきわめて広い範囲に分布する巨大な花崗岩体であり、そのうち岐阜県内には濃飛流紋岩の南縁部においてそれとの接触部にあたる浅部相が広く分布し、多くの地域でNOHI-1およびNOHI-2を貫いており、それらと火山-深成複合岩体を形成していると考えられている。ただし、県南東縁の上村(かみむら)川流域では領家帯構成岩類の天竜峡花崗岩の周辺において三都橋花崗岩と呼ばれている深部相が分布するが、ここでは区別せずに扱っている。斑状あるいは塊状の粗粒角閃石黒雲母トーナル岩~花崗岩からなる。この花崗岩は、古典的な「地向斜-造山運動」論において造山帯中核部の地下深部で形成された花崗岩体の典型例と考えられていたが、1960年代に地表に噴出・堆積した濃飛流紋岩を貫いていることが発見され、地表近くのきわめて浅所までマグマとして上昇してきたことになり、それまでの火成活動史の考えを根底から覆えし、塗り替えることとなった。
「“海”の謎」
岐阜県の最南東端にあたる上村川(かみむらがわ)上流に「海」という地名の場所がある。2000(平12)年9月の恵南豪雨の際にそこの河床が削り取られ、そこから枝や根を残した大量の埋もれ木が現れた。それから得られた年代値が西暦1550年~1600年頃であったことで、1586年の天正地震により大規模な山崩れが起き、上村川が堰止められ、天然のダム湖、すなわち「海」ができたと考えられるようになった。その後、その堰が崩れて「海」は再び川に戻ったが、地名は残った。この付近は阿寺断層系の南東端からさらに約10kmも離れており、これまで天正地震の被害範囲からも外れていた。ここでの埋もれ木の発見は、「海」の由来をはっきりさせるとともに、阿寺断層系の南東端がさらに南に延びる可能性を示唆し、被害範囲の広いことが謎とされる天正地震に新たな謎を投げかけるものとなった。
天正地震
飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害があり、現白川村で帰雲(かえりぐも)山の大崩壊が発生し、山麓にあった帰雲山城や民家300余戸が埋没し、多数の死者がでたとされる。また、下呂市御厩野(みまやの)にあった大威徳寺(だいいとくじ)が壊滅し、伊勢湾や若狭湾では津波が発生したとされる。これらのことから御母衣(みぼろ)断層、阿寺(あてら)断層、養老断層などの活断層が同時に動いたとされる説、時期はずれたが連続して動いたとされる説などがあり、不明な点が多い。
地質年代