災害名 天正地震(災害) てんしょうじしんさいがい
発生年月日 1586年1月18日(天正13年11月29日) 主要被災地 飛騨・美濃・尾張
 災害要因 活断層(阿寺・養老・御母衣断層?)/地震規模M7.9
概 要
   飛騨・美濃・伊勢・近江など、かなり広域にわたり被害をもたらした地震災害とされている。岐阜県内では、白川村において帰雲山(かえりぐもやま)の大崩壊が発生し、山麓にあった帰雲山城や民家300余戸が埋没し、城主・内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)を含む領民全員が遭難し、一夜にして滅亡したと伝えられている。また、郡上市明宝(めいほう)水沢上(みぞれ)においても大規模な地すべりによる崩落地形がみられる。これとほぼ同時期に下呂市御厩野(みまやの)にあった大威徳寺(だいいとくじ)が壊滅し、美濃では大垣城が全壊消失したとされている。岐阜県以外の地域においても、三河では岡崎城が大破し、近江では長浜城が全壊するなど大きな被害を受けた。さらには伊勢湾や若狭湾では津波が発生したとされる。これらのことから御母衣(みぼろ)断層阿寺(あてら)断層養老断層などが同時に動いたとされる説、時期はずれたがそれぞれの断層が連続して動いたとされる説などがあり、まだ不明な点が多く残されている。
天正地震により帰雲山の崩壊(写真奥)した土砂で埋没したとされる帰雲城址の石碑(白川村保木脇)
(撮影:小井土由光)
 
ジオ点描
   地震に関わる記録は時代が古くなるほど残されにくくなり、記述されている内容も不正確になる。それは発生した場所によっても差異はあるが、江戸時代においてすら怪しくなり、それ以前になると伝聞に近くなる。実際にはジオに関わる記述よりも災害の状況に関する記述の方が詳しく正確であることの方が多く、逆にそれからジオの状況を推察できることもある。
 
文 献 岡田篤正(2011)天正地震とこれを引き起こした活断層.活断層研究,35巻,1-13頁.
須貝俊彦(2011) 1586年天正地震養老断層説を示唆する地形地質学的記録.活断層研究,35巻,15-28頁. 
松浦律子(2011)天正地震の震源域特定.活断層研究,35巻,29-39頁.
帰雲山の大崩壊
白川村保木脇(ほきわき)の庄川対岸にあたる帰雲山(標高1622m)の西側斜面には、現在も大きくえぐれた崖がみられる。大崩壊の起きている帰雲山の山稜部周辺はすべて庄川火山-深成複合岩体を構成する火山岩類であり、比較的堅硬な岩石が分布している。この場所に大崩壊をもたらすような大規模な破砕帯などの存在は確認されていないが、この地域周辺では広範囲にわたり白川花崗岩類(鳩ヶ谷・平瀬岩体)に貫かれており、その境界部にしばしば熱水変質帯をともなうことから、それが火山岩類を脆弱化させて斜面崩壊をもたらした可能性がある。崩壊土砂の量は約2,500万?と見積もられており、それらは岩屑なだれとなって谷を流れ下り、庄川沿いにあったとされる帰雲城を埋没させ、さらに庄川を3kmほど流れ下り、約20日にわたりせき止め、上流約12kmまで堪水域を作ったとされている。この崩壊については多くの伝聞が残されているが、当時の文献の記述があいまいであるために、帰雲城の存在も含めて真相は不明のままである。

御母衣断層
御母衣断層は、御母衣断層系の中心をなす断層で全長約24kmにわたり延びる。地形からみると左横ずれ断層で、西側が隆起する傾向にある。白川村木谷において庄川東岸にある河岸段丘面を横切っており、その西側(川側)を約3.4m隆起させて低断層崖を形成している。1990(平2)年にこの断層崖においてトレンチ調査が実施され、この断層が逆断層であり、7,700年前以降と約2,500年前以降の少なくとも2回にわたる断層活動の跡が確認された。後者には、約400年前の天正地震(1586年)をもたらした断層の活動が含まれることになるが、時間幅がかなり大きいために特定できるような年代値とはなっていない。とはいえ、全体として現在も活発に活動しており、地震を発生する危険度の高い活断層であることは明確となっている。
阿寺断層
阿寺断層系は、中津川市馬籠(まごめ)付近から北西へ向かって、同市坂下、付知町、加子母(かしも)を経て、下呂市萩原町の北方へ至る全長約70kmにも及ぶ日本でも第一級の活断層系である。ほかの大規模な活断層系と同様に、複数の断層が平行にあるいは枝分れして走っている。それらのうち、おおよそ中津川市と下呂市の境界にある舞台峠付近より南に分布する断層群を阿寺断層と呼び、それより北に分布する断層群にはそれぞれ別の名称がつけられている。大きくみると、阿寺断層系は、その北東側にある標高1500~1900mの山稜部を持つ比較的なだらかな阿寺山地とその南西側にある標高1000m前後の美濃高原との境界部にある断層帯で、両者はもともと一続きの地形であり、地形上の高度差700~800mがそのまま断層による縦ずれ移動量を示すが、それよりも10倍近くの大きさで左横ずれ移動量をもち、それは断層を境に河川の流路が8~10kmも隔てて屈曲していることに表れている。
養老断層
濃尾平野から西方を望むと、養老山地が南北方向に延び、その東側斜面が壁のように立ちはだかり、ほぼ直線的な境界で濃尾平野と接している。その境界に沿って約40kmにわたり養老断層が延びている。養老山地から濃尾平野を経て東方の猿投(さなげ)山地に至る地形上の単位は「濃尾傾動地塊」と呼ばれ、東側が緩やかに上昇し、濃尾平野が沈降していく濃尾傾動運動で作られたものである。沈降していく濃尾平野と上昇していく養老山地との間に養老断層があり、その上下移動量は数百万年前から現在までに2,000m以上に達していると考えられている。沈降していく濃尾平野には木曽三川が運び込んだ大量の土砂が堆積しているから、その2/3ほどは埋められており、実際の養老山地東側の斜面では1/3ほどだけが断層崖として顔をのぞかせていることになる。

地質年代