災害名 飛越地震(災害) ひえつじしんさいがい
発生年月日 1858年4月9日(安政5年2月26日) 主要被災地 飛騨・越前・越中・加賀
 災害要因 活断層(跡津川断層)/地震規模M6.9
概 要
   岐阜県北部を北東~南西方向に延びる跡津川断層が動いたことで現在の飛騨北部から富山県にかけての地域で大きな被害が発生した地震災害である。岐阜県内では跡津川断層沿いに被害が集中しており、倒壊家屋319戸、死者203名であり、山崩れも多かった。とりわけ旧河合村角川(つのかわ)では全戸数98戸のうち77戸までが全壊または半壊した。同じく旧河合村元田(げんだ)の荒町では小鳥(おどり)川北岸が崩壊して土砂が流れ下り、一瞬にして9戸が埋まり53人が亡くなっており、その惨状を伝える文面が現在ここに建てられている慰霊碑に刻まれている。これらの被害においては、跡津川断層の南東側に比べて北西側で家屋の倒壊が多く、断層が北西側から南東側へ突き上げて動いたために北西側で震動が大きくなったことを示している。富山県地域では常願寺川の上流が山崩れで堰き止められ、のちにそれが決壊して富山平野で大洪水を起こした。
飛騨市河合町荒町にある安政飛越地震の石碑
(撮影:小井土由光)
 
ジオ点描
   1868年が明治元年であるから、飛越地震はそれより10年前の江戸最末期に起きた地震である。それでもその記録はそれなりに残されているものの、濃尾地震のように明治期以降に起きた地震にくらべると原因となる断層運動の状況は必ずしも十分に記録されたわけではなかった。大地の歴史からみると明治期も江戸期もまったく同時期と考えてよいが、人間の歴史からみると大きな時差がある。
飛越地震の際に崩落してきたとされる宮川町小豆沢の道路脇にある「大岩」
(撮影:中田裕一)
 
文 献 宇佐美龍夫(2003)最新版日本被害地震総覧{増補改訂版}.東京大学出版会,493頁.
跡津川断層
跡津川断層は、富山県の立山付近から南西へ向かって、飛騨市神岡町、宮川町、河合町を通り抜け、白川村の天生(あもう)峠付近までの全長約60kmにも及ぶ大断層であり、岐阜県における大規模な活断層系である阿寺断層系や根尾谷断層系などとともに日本を代表する活断層系の一つである。人工衛星画像でもその直線状の谷地形が明瞭に識別でき、大きく見ると一本の断層線として示されるが、実際には数本の断層が平行して走っていたり、枝分かれしたりしている。河川流路の折れ曲がりや断層崖などの断層地形が各所に残り、断層上のくぼ地には池ヶ原湿原や天生湿原のような湿原が形成されている。この断層は40万~70万年くらい前から活動を始めたとされているが、詳しいことはまだわかっていない。江戸時代末期の1858(安政5)年に起きた飛越地震は、跡津川断層が動いたことで起きたもので、断層沿いに多大な被害をもたらした。





地質年代