断層名 根尾谷断層(湯ノ古公園) ねおだにだんそう
(ゆのここうえん)
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場所 本巣市外山(とやま)
概要    岐阜・福井県境の能郷(のうご)白山(標高1,617m)付近から南東へ向かって約35kmにわたって続く根尾谷断層は本巣市外山の川内(かうち)地区付近から徐々に確認しにくくなり、本巣・岐阜市境の鹿穴(しかあな)峠付近を過ぎるとかなりわかりにくくなり、わずかに断層地形の連なりとして確認できる程度となる。その代わりに北側へ約2km離れたところからほぼ平行に梅原断層が南東へ向かって延びるようになり、これを断層の“乗りかえ現象”という。この川内地区には多くの湧水があり、その水温は一年を通して一定であり、冬場は相対的に温かいために古くは字名を“湯ノ古”と呼んだそうである。この公園は根尾谷断層の真上にあり、そこを公園として整備したときに水が湧き出したため、ハリヨを放し観察できるようにした。
ジオ点描    断層は大地が破壊されている部分であるから、水を通す地下水脈になりやすい。地下水脈となった断層が地表にまで達していればそこに湧水をもたらす。湯ノ古公園と同じ根尾谷断層の真上にあって、北西へ2kmほどにあたる金原(きんばら)の谷にある「蛇池(じゃいけ)」も濃尾地震以前からあるまったく同じ湧水による“池”であり、それが濃尾地震時に拡大したといわれている。
文献
  • 写真 本巣市川内の湯之古公園
    (撮影:小野康雄)
    写真 金原の谷にある蛇池
    (撮影:小井土由光)
    根尾谷断層
    根尾谷断層は、全長約80kmにわたり複数の活断層群からなる根尾谷断層系のうち、岐阜・福井県境にある能郷(のうご)白山(標高1617m)付近からほぼ根尾川沿いに南下し、岐阜市北端部に至る約35kmの長さをもつ活断層である。全体として左横ずれ変位が卓越し、北東側が沈下する縦ずれ変位をともなう運動を起こしている。根尾谷断層系のほぼ中央において比較的活発に動いてきた断層であることもあり、しばしば「根尾谷断層系」とまったく同義に使われて混乱を招いており、厳密には明確に区別して扱う必要がある。1891(明24)年にとりあえず最後の活動を起こして濃尾地震をもたらし、その際に形成された地表の変位を「根尾谷地震断層」と呼び、その代表例が国の特別天然記念物に指定されている通称「水鳥(みどり)の断層崖」である。これも単に“根尾谷断層”と呼ばれることが多く、日本地質学会もここを“根尾谷断層”として「日本の地質百選」に選定している。
    梅原断層
    梅原断層は根尾谷断層系の南東端を構成し、山県市南東部から岐阜市北東部、関市南部を経て坂祝(さかほぎ)町に至る全長約35kmにわたって延びる。ただし、根尾谷断層と異なり、ほとんどの地域で沖積層の下を通過しているため、それに隠されて実態は把握しにくかった。1891(明24)年に濃尾地震を起した際に形成された梅原地震断層が旧伊自良村から関市を経て美濃加茂市に至る低地に沿って変位を生じさせたことで、その位置が明確になった。梅原地震断層は根尾谷地震断層と同時に動いているが、性格はかなり異なり、全体を通じて横ずれ運動よりも南西側を隆起させる縦ずれ運動が卓越しており、その量は最大で約2.4mであった。
    根尾谷断層(金原の谷)
    本巣市金原の谷は、北北西~南南東方向に約2kmにわたり直線状に延び、ここを根尾谷断層が通る。この谷の北端にあって北東側から根尾川本流へ流れ込んでいる金原谷と素振(すぶり)谷は、もともとは金原の谷の南端で西方へ流れ出ている鍋原(なべら)谷と一本の谷を形成していた。その流路が根尾谷断層の左横ずれ運動によりずれていき、それが累積されて約2kmのずれを生じた時点で、上流側が現在のように根尾川へ直接流れ込んでしまい、金原の谷には河川が流れなくなった。ここでは1891(明24)年に濃尾地震を起こして動いた際に平均4.3mの左横ずれを生じており、それは「金原横ずれ断層」として本巣市の天然記念物に指定されている。大地震を起こす1回の断層運動で仮に4mの横ずれを生じるとすると、2kmずれるのに500回の大地震を起こしてずれたことになる。トレンチ調査によれば、ここでは平均すると1,000年あたり約2mの左ずれを起こしてきたことになり、その累積が2kmになるまでに約100万年かかることになる。
    濃尾地震
    濃尾地震は根尾谷断層系の温見(ぬくみ)断層、根尾谷断層、梅原断層などが同時に動いたことで発生し、活断層型(直下型)地震としては国内で最大級の規模をもつ地震である。明治時代に入ってから起こったこともあり、大地に現れた地震断層ばかりでなく、被害の状況も詳細な記録として残されている。この地震により、美濃地方で死者4,889人、負傷者12,311人、全壊70,048戸、半壊30,994戸という被害がもたらされた。全国規模でも、死者7,273人という多大な被害を受けたばかりでなく、当時としての先端技術であった鉄道や煉瓦作りの建物に甚大な被害を受けたことで、富国強兵に邁進していた明治政府にとって大きな打撃となった。この災害を契機として耐震構造への関心が強まり、その研究が大きく進展していったり、この地震後に震災予防調査会が設置され、日本における本格的な地震研究がスタートした。

    地質年代