断層名 梅原地震断層(中野の断層崖) うめはらじしんだんそう
(なかののだんそうがい)
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場所 関市中野(なかの)
概要    津保川沿いの関市稲口から中野にかけてみられる最大2mほどの高さをもつ断層崖である。実態が把握しにくかった梅原断層の位置が1891(明24)年に濃尾地震を起して動いた梅原地震断層の変位により明確になり、その一つがこの断層崖であり、横ずれ運動よりも南西(南)側を隆起させる縦ずれ運動が卓越している特徴を示す。断層の運動(地盤の破壊)は長大な断層全体を同時にずらすことで起きるのではなく、最初の出発点(震源)から亀裂が順に広がるようにしてずれていく。濃尾地震をもたらした地盤の破壊は根尾谷断層系の北西部から始まり、徐々に南東へ進んで根尾谷地震断層を形成していき、それに続いて旧伊自良(いじら)村付近から坂祝(さかほぎ)町付近までの全長約25kmにわたる梅原地震断層を形成していった。断層がずれる時の振動が地震であり、断層がずれていく速度(秒速2~3km)よりも地震波の速度(秒速5~7km)の方が速い。そのため濃尾地震の震源域からかなり離れたこの地域においては、震源から同時にスタートした地震波を感じてから実際に大地の異変が現れる(断層のずれが伝わってくる)までに時間差(数~十数秒)があったことを示している。
ジオ点描    放電現象である雷において、稲光の後しばらくしてから雷鳴が聞こえることは誰でも経験していることであり、光の速度が音の速度より速いために起こる現象である。出発点が同じであっても伝わる速度が異なれば到達時間が異なるだけのことであり、これと同じことが大地のずれていく速度と揺れの伝わる速度にもあてはまり、地震波が到達した後に断層のずれが到達しただけのことである。
文献
  • 写真 関市中野における梅原地震断層の断層崖
    (撮影:木澤慶和)
    写真 準備中
    濃尾地震
    濃尾地震は根尾谷断層系の温見(ぬくみ)断層、根尾谷断層、梅原断層などが同時に動いたことで発生し、活断層型(直下型)地震としては国内で最大級の規模をもつ地震である。明治時代に入ってから起こったこともあり、大地に現れた地震断層ばかりでなく、被害の状況も詳細な記録として残されている。この地震により、美濃地方で死者4,889人、負傷者12,311人、全壊70,048戸、半壊30,994戸という被害がもたらされた。全国規模でも、死者7,273人という多大な被害を受けたばかりでなく、当時としての先端技術であった鉄道や煉瓦作りの建物に甚大な被害を受けたことで、富国強兵に邁進していた明治政府にとって大きな打撃となった。この災害を契機として耐震構造への関心が強まり、その研究が大きく進展していったり、この地震後に震災予防調査会が設置され、日本における本格的な地震研究がスタートした。
    根尾谷断層系
    「根尾谷断層系」は、全長約80kmにもおよぶ長大な活断層群の総称であり、何本もの活断層で構成された長大な活断層帯を形成している。それらのうち、岐阜・福井県境の能郷(のうご)白山(標高1617m)付近から根尾川沿いに南下して岐阜市北端部へ至る、おおよそ1本の断層線で示される活断層を「根尾谷断層」と呼ぶ。根尾谷断層系の活断層にほぼ沿って1891(明24)年に動いた地震断層群の総称を「濃尾地震断層系」と呼び、そのうちの1本として根尾谷断層も動き「根尾谷地震断層」を形成した。根尾谷断層系は、何回も活動を繰り返してきた中でとりあえず最後の大きな活動として濃尾地震断層系を形成し、そのときの震動が濃尾地震である。根尾谷断層系を構成する各活断層は今後も活動し続けるはずであり、決して最後ではないから、濃尾地震断層系は“とりあえず最後の活動”となる。
    梅原断層
    梅原断層は根尾谷断層系の南東端を構成し、山県市南東部から岐阜市北東部、関市南部を経て坂祝(さかほぎ)町に至る全長約35kmにわたって延びる。ただし、根尾谷断層と異なり、ほとんどの地域で沖積層の下を通過しているため、それに隠されて実態は把握しにくかった。1891(明24)年に濃尾地震を起した際に形成された梅原地震断層が旧伊自良村から関市を経て美濃加茂市に至る低地に沿って変位を生じさせたことで、その位置が明確になった。梅原地震断層は根尾谷地震断層と同時に動いているが、性格はかなり異なり、全体を通じて横ずれ運動よりも南西側を隆起させる縦ずれ運動が卓越しており、その量は最大で約2.4mであった。


    地質年代