断層名 梅原断層(郷部山) うめはらだんそう(こぶやま)
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場所 坂祝(さかほぎ)町郷部山
概要    そのほとんどが平地部を通ることで、その活動累積などの実態が把握しにくかった梅原断層にとって、坂祝町の郷部山(標高162m)の北麓斜面は山地部を通過する数少ない場所にあたっている。ここではこれまでの断層活動の累積により形成された西北西~東南東方向に並ぶ断層鞍部の列が見られ、この地形を利用して坂祝町の公共利用施設が作られている。ところが1891(明24)年の濃尾地震の際にはこの地域での断層変位はまったく確認できず、根尾谷断層系の北西部から始まった地盤の破壊は順に南東へ向かって進み、おおよそこの付近で終息したことになる。ここより東方にあたる坂祝町酒倉(さかくら)では、その後の水準測量で南西側が83cm隆起したことが判明した程度であった。
ジオ点描    断層の末端とはそのずれの量がゼロになる場所である。大きく見ればずれていく量が徐々に減っていき、やがてゼロになると説明して間違いはなさそうであり、そのように説明されると納得してしまいそうである。しかし現実にはそれほど単純ではないはずであり、ずらされる大地が均質ではないから、たとえ均一に力がかかったとしてもずれ方は均等にはならないはずである。
文献
  • 写真 梅原断層の断層鞍部を利用してつくられた坂祝町黒岩の公共利用施設
    (撮影:小井土由光)
    写真 準備中
    梅原断層
    梅原断層は根尾谷断層系の南東端を構成し、山県市南東部から岐阜市北東部、関市南部を経て坂祝(さかほぎ)町に至る全長約35kmにわたって延びる。ただし、根尾谷断層と異なり、ほとんどの地域で沖積層の下を通過しているため、それに隠されて実態は把握しにくかった。1891(明24)年に濃尾地震を起した際に形成された梅原地震断層が旧伊自良村から関市を経て美濃加茂市に至る低地に沿って変位を生じさせたことで、その位置が明確になった。梅原地震断層は根尾谷地震断層と同時に動いているが、性格はかなり異なり、全体を通じて横ずれ運動よりも南西側を隆起させる縦ずれ運動が卓越しており、その量は最大で約2.4mであった。
    濃尾地震
    濃尾地震は根尾谷断層系の温見(ぬくみ)断層、根尾谷断層、梅原断層などが同時に動いたことで発生し、活断層型(直下型)地震としては国内で最大級の規模をもつ地震である。明治時代に入ってから起こったこともあり、大地に現れた地震断層ばかりでなく、被害の状況も詳細な記録として残されている。この地震により、美濃地方で死者4,889人、負傷者12,311人、全壊70,048戸、半壊30,994戸という被害がもたらされた。全国規模でも、死者7,273人という多大な被害を受けたばかりでなく、当時としての先端技術であった鉄道や煉瓦作りの建物に甚大な被害を受けたことで、富国強兵に邁進していた明治政府にとって大きな打撃となった。この災害を契機として耐震構造への関心が強まり、その研究が大きく進展していったり、この地震後に震災予防調査会が設置され、日本における本格的な地震研究がスタートした。
    根尾谷断層系
    「根尾谷断層系」は、全長約80kmにもおよぶ長大な活断層群の総称であり、何本もの活断層で構成された長大な活断層帯を形成している。それらのうち、岐阜・福井県境の能郷(のうご)白山(標高1617m)付近から根尾川沿いに南下して岐阜市北端部へ至る、おおよそ1本の断層線で示される活断層を「根尾谷断層」と呼ぶ。根尾谷断層系の活断層にほぼ沿って1891(明24)年に動いた地震断層群の総称を「濃尾地震断層系」と呼び、そのうちの1本として根尾谷断層も動き「根尾谷地震断層」を形成した。根尾谷断層系は、何回も活動を繰り返してきた中でとりあえず最後の大きな活動として濃尾地震断層系を形成し、そのときの震動が濃尾地震である。根尾谷断層系を構成する各活断層は今後も活動し続けるはずであり、決して最後ではないから、濃尾地震断層系は“とりあえず最後の活動”となる。


    地質年代