断層名 阿寺断層(“海”の謎) あてらだんそう
(うみのなぞ)
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場所 恵那市上矢作(かみやはぎ)町達原(たつばら)海
概要    岐阜県の最南東端にあたる上村川(かみむらがわ)上流で国道418号の達原トンネルを抜けたところに「海」という地名の場所がある。2000(平12)年9月の恵南豪雨の際にそこの河床が削り取られ、そこから枝や根を残した炭化した埋もれ木が大量に現れた。それから得られた年代値が西暦1550年~1600年頃であったことで、1586年の天正地震により大規模な山崩れが起きて上村川が堰止められ、天然のダム湖、すなわち“海”ができ、そこに溜まった土砂により樹木がそのまま埋まって炭化したと考えられるようになった。その後、その堰が崩れて“海”は再び川に戻ったが、地名「海」は残った。この付近は阿寺断層系の南東端からさらに約10kmも離れており、これまで天正地震により受けた被害の想定範囲からも外れていた。ここでの埋もれ木の発見は“海”の由来をはっきりさせるとともに、阿寺断層系の南東端がさらに南に延びる可能性を示唆し、被害範囲の広いことが謎とされる天正地震に新たな謎を投げかけるものとなった。
ジオ点描    日本では山間部が多いことから、山崩れによって河道が堰き止められて湖を形成することがしばしば起こる。その多くは集中豪雨による崩壊でもたらされたものであるが、地震動による崩壊も見逃せない。形成される湖の規模もさまざまであり、それが決壊することで二次災害となることもある。あるいは地震動の原因となる断層の縦ずれ運動でも河川が塞がれることで湖を形成し、災害となったこともあった。
文献
  • 坂部和夫(2005)天正地震(1586年)時の岐阜県上矢作町荒(あら)における大規模山体崩壊について.歴史地震,20号,243-246頁.
  • 写真 上矢作町海における炭化した埋もれ木(帽子の長さ約30cm)
    (撮影:小井土由光)
    写真 上矢作町海の上村川の河原に並んで立つ炭化した埋もれ木
    (撮影:小井土由光)
    恵南豪雨
    名古屋西方の庄内川・新川流域でも大きな被害を受けたことから「東海豪雨」とも呼ばれ、岐阜県内では東濃地方南部(恵南地域)において国道・県道などの主要道路での損壊が著しく、とりわけ旧上矢作町を中心に大きな土砂災害が発生した。砂状に風化してマサ化した伊奈川花崗岩が山腹崩壊や道路欠壊を招き、荒廃した山からの大量の流木が河川氾濫、家屋全壊半壊などの被害を拡大したとされている。上村(かみむら)川上流の海地区ではこの豪雨による崩壊で大量の埋もれ木が露出し、「“海”の謎」として天正地震にかかわる新たな資料が得られている。岐阜県内では死者1名、建物流出28戸、建物半壊16戸、床上浸水108戸、床下浸水390戸という被害であった。
    天正地震
    飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害があり、現白川村で帰雲(かえりぐも)山の大崩壊が発生し、山麓にあった帰雲山城や民家300余戸が埋没し、多数の死者がでたとされる。また、下呂市御厩野(みまやの)にあった大威徳寺(だいいとくじ)が壊滅し、伊勢湾や若狭湾では津波が発生したとされる。これらのことから御母衣(みぼろ)断層、阿寺(あてら)断層、養老断層などの活断層が同時に動いたとされる説、時期はずれたが連続して動いたとされる説などがあり、不明な点が多い。
    阿寺断層系
    阿寺断層系は、中津川市馬籠(まごめ)付近から北西へ向かって、同市坂下、付知町、加子母(かしも)を経て、下呂市萩原町の北方へ至る全長約70kmにも及ぶ日本でも第一級の活断層系である。ほかの大規模な活断層系と同様に、複数の断層が平行にあるいは枝分れして走っている。それらのうち、おおよそ中津川市と下呂市の境界にある舞台峠付近より南に分布する断層群を阿寺断層と呼び、それより北に分布する断層群にはそれぞれ別の名称がつけられている。大きくみると、阿寺断層系は、その北東側にある標高1500~1900mの山稜部を持つ比較的なだらかな阿寺山地とその南西側にある標高1000m前後の美濃高原との境界部にある断層帯で、両者はもともと一続きの地形であり、地形上の高度差700~800mがそのまま断層による縦ずれ移動量を示すが、それよりも10倍近くの大きさで左横ずれ移動量をもち、それは断層を境に河川の流路が8~10kmも隔てて屈曲していることに表れている。


    地質年代