断層名 跡津川断層(野首トレンチ) あとつがわだんそう
(のくびとれんち)
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場所 飛騨市宮川町野首
概要    飛騨市宮川町林の旧宮川中学校脇にあった“まぼろしの断層崖”が国道バイパス工事で削り取られる前の1982(昭57)年にそれに直交する方向にトレンチ調査が行なわれた。トレンチは幅約9m、長さ約23m(上端部分)、深さ約10m(最深部)という規模で掘られ、そこでは断層の北西側にある飛騨帯構成岩類の飛騨花崗岩類が南東側にある段丘堆積層の砂礫層に乗り上げる様子が見られた。北西側が上昇隆起したことで水平に堆積しているはずの南東側の段丘堆積層は断層近くで引きずられて曲がっていった。ここでは4回にわたる断層の活動履歴が明らかにされ、1,000年あたり約5mという平均横ずれ移動量が求められ、この断層の活動度は横綱格のA級(1m以上/1,000年)となる。その後の研究結果も踏まえると、跡津川断層はおよそ2,300~2,700年に一回の割合で活動してきたと推定されている。これをそのまま当てはめると、最新の大きな活動で起こった地震は1858(安政5)年の飛越地震であるから、次に活動して大地震を起こすのは2,000年以上先になる。
ジオ点描    トレンチ調査は、活断層の通過地点において深さ数m程度の溝(トレンチ)を掘り、その壁面にみられる地質断面を詳細に観察して活断層の過去の活動履歴やずれの量を調査する方法である。ただし、断層活動の年代決定が幅をもって得られることがあるばかりでなく、一ヶ所のトレンチ調査ではその断層線からの情報だけが得られることになり、それを断層帯全体の情報として扱うには別に検証される必要がある。
文献
  • 跡津川断層トレンチ発掘調査団(1989)岐阜県宮川村野首における跡津川断層のトレンチ発掘調査.地学雑誌,98巻,440-463頁.
  • 写真 宮川町野首のトレンチ調査現場の断面
    (撮影:下畑五夫)
    写真 準備中
    まぼろしの断層崖
    跡津川断層は右横ずれ運動の卓越する断層として知られているが、縦ずれ運動もあり、各地に断層崖を形成した。その一つが飛騨市宮川町の宮川中学校体育館のすぐ脇にあった高さ約5m、長さ約80mの崖であった。しかし、この崖は国道360号のバイパス工事によってすべて削り取られてしまった。一般に、1回の横ずれ運動で断層がずれた場合には、目印にあたるものがなくなると移動量ばかりでなく、その存在すらわからなくなる場合もある。縦ずれ断層の場合には、降雨などにより断層崖が削られて崩されていくが、根尾谷断層における水鳥の断層崖のように100年以上経った現在でも崖として残されている。宮川中学校横の断層崖も、そのままにしておけばあと100年や200年は立派な断層崖として残されて後世に伝えられるものであった。それを無くしてしまった原因が自然ではなく人間であることが残念である。
    飛騨帯構成岩類
    飛騨帯は、岐阜県の北部から北陸地方へかけての地域に広がる変成岩類と花崗岩類からなる地質帯である。ただし、これらの構成岩類がこの地域のどこにでも分布しているわけではなく、それ以降に形成された岩石類に覆われたり貫かれているために、実際にはかなり限られた地域にだけ分布する。変成岩類は総称して「飛騨片麻岩類」と呼ばれ、それらを形成した広域変成作用の時期についてはいくつかの見解があるが、おおよそ3億年~4億5000万年前(古生代石炭紀・シルル紀・デボン紀)と2億4000万年前ごろの少なくとも2回にわたり重複した変成作用で形成されたとされている。花崗岩類はこれまで「船津花崗岩類」と呼ばれ、1億8000万年前(中生代ジュラ紀)に飛騨外縁帯構成岩類の分布域にまで及ぶ範囲に一斉に貫入したことで飛騨片麻岩類に熱変成作用をもたらしたと考えられてきた。しかし、それらの中には古い年代を示す岩体もあり、一律に扱うことができないことがわかってきたため、それらの形成時期を少なくとも2期に分けて区別するようになった。変成岩類も花崗岩類も複数回におよぶ複雑な過程を経て形成されているために、すべての飛騨帯構成岩類を全域にわたって一定の基準で表現することはかなりむずかしいことから、ここではそれらを「飛騨変成岩類」、「飛騨花崗岩類」と呼び、それぞれを6種類と10種類の岩相に区分することで表現する。そのため1つの岩相で示される岩石の中にも別の変成・深成作用で形成された岩石が含まれている場合もある。
    跡津川断層
    跡津川断層は、富山県の立山付近から南西へ向かって、飛騨市神岡町、宮川町、河合町を通り抜け、白川村の天生(あもう)峠付近までの全長約60kmにも及ぶ大断層であり、岐阜県における大規模な活断層系である阿寺断層系や根尾谷断層系などとともに日本を代表する活断層系の一つである。人工衛星画像でもその直線状の谷地形が明瞭に識別でき、大きく見ると一本の断層線として示されるが、実際には数本の断層が平行して走っていたり、枝分かれしたりしている。河川流路の折れ曲がりや断層崖などの断層地形が各所に残り、断層上のくぼ地には池ヶ原湿原や天生湿原のような湿原が形成されている。この断層は40万~70万年くらい前から活動を始めたとされているが、詳しいことはまだわかっていない。江戸時代末期の1858(安政5)年に起きた飛越地震は、跡津川断層が動いたことで起きたもので、断層沿いに多大な被害をもたらした。
    飛越地震
    飛騨北部・越中で被害が大きく、とくに岐阜県内では跡津川断層沿いに被害が集中しており、全壊319戸、死者203名とされ、山崩れも多かった。とくに断層の南東側に比べて北西側で家屋の倒壊が多く、断層が北側から南側へ突き上げて動いたために北東側で震動が大きくなった。富山県側では、常願寺川の上流が山崩れで堰き止められ、のちにそれが決壊して富山平野で大洪水を起こした。

    地質年代