災害名 | 帰雲山の大崩壊 | かえりぐもやまのだいほうかい |
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発生年月日 | 1586(天正13)年? | |
主要被災地 | 庄川流域 | |
災害要因 | 御母衣(みぼろ)断層が動いたことで起きたとされる天正地震の震動? | |
概要 | 白川村保木脇(ほきわき)の庄川対岸にある帰雲山(標高1,622m)の西側斜面には大きく崩壊した崖がみられる。大崩壊の起きている帰雲山の山稜部周辺はすべて庄川火山-深成複合岩体を構成する火山岩類であり、比較的堅硬な岩石が分布している。この場所に大崩壊をもたらすような大規模な破砕帯が存在するか否かについては不明であるが、火山岩類は広範囲にわたり白川花崗岩類(鳩ヶ谷・平瀬岩体)に貫かれており、その境界部にしばしば熱水変質帯をともなうことから、それが火山岩類を脆弱化させて斜面崩壊をもたらした可能性がある。崩壊土砂の量は約2,500万㎥と見積もられており、それらは岩屑なだれとなって谷を流れ下り、庄川沿いにあったとされる戦国武将・内ヶ島氏理(うちがしまうじまさ)の居城「帰雲城」や300〜400戸あったとされる城下町が完全に埋没し、さらに庄川を3kmほど流れ下り、約20日にわたり堰き止め、上流約12kmまで堪水域を作ったとされている。この崩壊については多くの伝聞が残されているが、当時の文献の記述があいまいであるために、帰雲城の存在も含めて真相は不明のままである。ちなみに帰雲山の名称は、雲がこの山にあたると逆流して帰っていったという言い伝えに由来するとされている。 | |
ジオ点描 | 帰雲山でみられる崩壊地は現在でも生々しく岩盤を露出させている。1586年に大崩壊を起こしたとしても400年以上も経過していることになり、そのままであれば植生に覆われてしまうはずである。規模は小さいとしても現在も常に崩壊を続けているから植生が保持できない状態になっていることになる。それだけ最初の崩壊規模が大きく、安定な状態になるまで時間がかかっていることになる。 | |
文献 | ||
写真 | 白川村保木脇の庄川対岸にある帰雲山の崩壊地と庄川河畔にある帰雲城址の石碑 (撮影:小井土由光) |
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写真 | 準備中 |