施設名 徳山ダム とくやまだむ
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場所 揖斐川町東杉原
形式 中央土質遮水壁型ロックフィルダム
規模 堤高161.0m
設置者 (独)水資源機構
完成年 2008(平20)年
概要    揖斐川の治水(洪水調節)、東海3県の利水(不特定利水・上水道・工業用水)および発電などの多目的で建設されたダムである。堤体の基礎および堪水域はすべて美濃帯堆積岩類の分布域にあり、緑色岩チャートメランジュなど複雑な地質で構成されている。これらを堤体材や遮水壁材として近傍で確保できることから安定性や経済性の面でロックフィルダムが採用され、さらには総貯水容量6億6,000万m³という日本最大規模の貯水量を支える堤体としても体積の大きいロックフィルダムが採用されていると思われる。堪水域の主体をなす揖斐川本流沿いに揖斐川断層が北西~南東方向に延びることもダム型式と無関係ではなさそうであるが、堤体部やその周辺には活断層はないとされている。なお、この断層は根尾谷断層系でありながら1891(明24)年に濃尾地震を起こした際にはまったく動いていないことから、将来において活動する可能性は相対的に高くなり、その際に起こるであろう断層のずれと巨大ダムとのかかわり(湖水の津波など)は注目しておいてよい。ダム建設にともない旧徳山村の全村が水没し、ダムによって形成された人造湖は旧徳山村村民からの要望により旧村名に因んで「徳山湖」と命名されている。また、全国的にダムの必要性についての論争が起き、事業に対しては推進・反対と分かれてさまざまに議論がなされるなど話題の多いダムであった。そうしたこともあり、1957(昭32)年に事業が計画されてから51年という極めて長期間を経て完成したダムであった。また、全国的にみると巨大ダムの設置場所の確保が困難になりつつあり、ダム建設事業への疑問などもあり事実上の日本最後の巨大ダム建設になったとされている。
ジオ点描    巨大な水ガメが人為的に用意されてしまったことで、大地にとってはそれ以前とは明らかに異なる状態が作られた。ダム周囲の山体に対して莫大な水圧がかかるようなったことでひずみが蓄積され、その限度を超えて解放される際に地震が発生する。これがよく知られている「ダム(誘発)地震」であり、日本ではまだ起きていないようであるが、徳山ダムでは巨大であるが故にその発生は大いにあり得る。
写真 日本最大規模の貯水量を支える徳山ダムの堤体
(撮影:小井土由光)
写真 徳山会館から望む徳山ダム湖水面とコア材採取地
(撮影:小井土由光)
美濃帯堆積岩類
美濃帯は、飛騨外縁帯の南側にあってかなり幅広く分布する地質帯で、岐阜県内でも広範囲にわたる地域を占める。そこは、古生代石炭紀から中生代白亜紀最前期にかけての時期にチャート・石灰岩・砂岩・泥岩・礫岩などの海底に堆積した堆積岩類と海底に噴出した緑色岩(玄武岩質火山岩類)でおもに構成されている。下図に示すように、海洋プレートの上に噴出した玄武岩質火山岩類は海底や火山島(海山)を形成して、その上にチャートや石灰岩・珪質泥岩などを徐々に堆積させながら大陸へ向かって年間数cmほどの速さで移動していく。海洋プレートは海溝部で大陸の下へ沈み込んでいくが、堆積物はいっしょに沈み込むことができず、はぎ取られたり、大陸側から運び込まれた砂岩・泥岩などとともに大陸側へ押し付けられ、混じり合って複合体(コンプレックス)を作りあげていく。こうした作用を付加作用といい、それにより形成された堆積物は付加体堆積物と呼ばれ、これまでそれらを総称して「美濃帯中・古生層」、「美濃帯中生層」、「美濃帯堆積岩コンプレックス」などといろいろな表現で呼ばれてきたが、ここではこれらを「美濃帯堆積岩類」と呼ぶ。それらは、それまで順に重なっていた地層が付加作用にともなって低角の断層を境にして屋根瓦のように繰り返して覆うように重なったり、複雑に混じりあったメランジュと呼ばれる地質体を構成し、整然とした地層として順番に連続して重なるようなことがほとんどない。そのため全域にわたり個々の地層名を付して表現することがむずかしいため、ここでは構成岩石の種類(岩相)によって表現する。これらの構成岩石は単独でも複数の組合せでもある程度の大きさを持つ地質体を形成しており、その大きさはcmオーダーの礫からkmオーダーの岩体までさまざまである。これらは岩相、形成時期、形成過程などの類似性から複数の地質ユニットに区分され、ユニット間は衝上断層で接することが多いが、その区分による表現はここでは用いない。
揖斐川断層
揖斐川断層は、徳山ダムの底に沈んだ旧徳山村を北西~南東方向に縦断し、馬坂(うまさか)峠を経て、根尾越卒(おっそ)付近で根尾谷断層に収れんするように全長約20kmにわたって延びる。この断層は根尾谷断層系の一つであるが、1891(明24)年の濃尾地震の際には動かなかった。2001(平13)年秋に掘られたトレンチ調査においては、約1mの縦ずれと約6.5mの左横ずれが確認されたが、これらが1回の断層運動によるものかどうかは決定できなかった。とはいえ、濃尾地震をもたらした根尾谷断層や梅原断層に比べれば、今後動きやすい断層であると考えることもでき、それが巨大な徳山ダムの湖水域に沿って走っていることは注目しておいてよい。
根尾谷断層系
「根尾谷断層系」は、全長約80kmにもおよぶ長大な活断層群の総称であり、何本もの活断層で構成された長大な活断層帯を形成している。それらのうち、岐阜・福井県境の能郷(のうご)白山(標高1617m)付近から根尾川沿いに南下して岐阜市北端部へ至る、おおよそ1本の断層線で示される活断層を「根尾谷断層」と呼ぶ。根尾谷断層系の活断層にほぼ沿って1891(明24)年に動いた地震断層群の総称を「濃尾地震断層系」と呼び、そのうちの1本として根尾谷断層も動き「根尾谷地震断層」を形成した。根尾谷断層系は、何回も活動を繰り返してきた中でとりあえず最後の大きな活動として濃尾地震断層系を形成し、そのときの震動が濃尾地震である。根尾谷断層系を構成する各活断層は今後も活動し続けるはずであり、決して最後ではないから、濃尾地震断層系は“とりあえず最後の活動”となる。
濃尾地震
濃尾地震は根尾谷断層系の温見(ぬくみ)断層、根尾谷断層、梅原断層などが同時に動いたことで発生し、活断層型(直下型)地震としては国内で最大級の規模をもつ地震である。明治時代に入ってから起こったこともあり、大地に現れた地震断層ばかりでなく、被害の状況も詳細な記録として残されている。この地震により、美濃地方で死者4,889人、負傷者12,311人、全壊70,048戸、半壊30,994戸という被害がもたらされた。全国規模でも、死者7,273人という多大な被害を受けたばかりでなく、当時としての先端技術であった鉄道や煉瓦作りの建物に甚大な被害を受けたことで、富国強兵に邁進していた明治政府にとって大きな打撃となった。この災害を契機として耐震構造への関心が強まり、その研究が大きく進展していったり、この地震後に震災予防調査会が設置され、日本における本格的な地震研究がスタートした。
緑色岩(玄武岩質火山岩類)
美濃帯堆積岩類において、ペルム紀に海底に噴出して形成された火山島を作った岩石であり、枕状溶岩として産することもある。変質して緑色を帯びることが多いためこの名があり、かつては“輝緑凝灰岩”と呼ばれていたこともある。それらが海山を構成し、その上に形成されたサンゴ礁が石灰岩にあたることで、それらと密接にともなって産することが多い。ともに美濃帯堆積岩類において最も古い時期の岩石である。
チャート
一般には硬く緻密な微粒珪質堆積岩の総称であり、美濃帯堆積岩類を構成する主要な岩石の一つとして特徴的に産する。厚く層状に分布することが多く、これを層状チャートと呼ぶ。一部に古生代ペルム紀のものも含まれるが、ほとんどは中生代三畳紀~ジュラ紀前期に海底に堆積した放散虫などのプランクトンからなる遠洋性の堆積物で、陸源砕屑物をまったく含まない。
メランジュ
もともとは混合を意味するフランス語であり、いろいろな種類の岩石が複雑に混じりあった地質体を指し、プレートの沈み込みにともなう構造運動で変形した岩石類にあてはめて用いることが多い。美濃帯堆積岩類においては、泥岩の基質中に石灰岩・緑色岩・チャート・珪質泥岩・砂岩などからなるさまざまな大きさの礫あるいは岩塊を異地性岩体として数多く含む地質体である。海洋プレート上に載った堆積物が海溝部で付加される過程のほかに、海底地すべりや断層に沿う破断作用などの過程が複合されて形成されると考えられている。
地質年代