項目 羽沢貝塚 はざわかいづか
関連項目
地点 海津市南濃町羽沢
見学地点の位置・概要    養老鉄道養老線の駒野駅の南東約600mに駒野第2号踏切(軽・特殊小型以外は通行不可)がある。その南西側にある広場の一角に羽沢貝塚の石碑と案内看板があり、石碑の周囲に白色になったシジミの貝殻が散逸している。
見学地点の解説    羽沢貝塚は1910(明43)年に発見された貝塚で、汽水性のヤマトシジミを中心とした貝類、土器・石器のほかに、成人の骨10体、幼児の甕棺3基などが出土している。この貝塚は東西約20m、南北約25mの範囲に分布し、縄文時代中期後半(約4,500~4,000年前)に形成され始めたと考えられており、当時の伊勢湾に注ぐ揖斐川河口部付近にあたる場所であった。ここより北西約2kmに縄文時代中期前半(約4,500年前)から形成され始めたと考えられている庭田貝塚があり、それにくらべて気候が寒冷化したことで海水面が低下し、河口の位置が南下した時期にあたっている。なお、一般に日本の土壌は酸性であるために、人骨や貝殻は溶けて残りにくいとされているが、炭酸カルシウムからなる貝殻が大量に存在する貝塚では、土壌が中和されて人骨や貝殻が溶けずに残ったと考えられている。
ジオの視点    最終氷期後の温暖化により大量の氷床が溶けて海面上昇が起き、日本では縄文時代前期にあたる約6,000年前にそのピークをむかえたとされ、これを縄文海進と呼んでいる。貝塚は当時の海岸線付近の“ゴミ捨て場”であり、それが現在の内陸部で発見されたことから「海進」という考えが提唱され、その最大時には濃尾平野地域では現在の大垣市付近まで海面が侵入した。海に面していない岐阜県における貝塚は、養老山地東麓において高台を作っていた扇状地上にある羽沢貝塚と庭田貝塚の2つだけであり、これらは海岸線が最大海進時から現在の海水面の位置まで濃尾平野の西部に偏りながら徐々に退いていく途中の段階を示す貝塚にあたる。
写真 羽沢貝塚の石碑
(撮影:小井土由光)
写真 羽沢貝塚の石碑周辺で見られるシジミの貝殻
(撮影:小井土由光)

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地質年代