項目 巨石積第一堰堤 きょせきづみだいいちえんてい
関連項目 事項解説>大型土木構造物>ダム>羽根谷巨石積み堰堤(第一堰堤)
地点 海津市南濃町奥条 羽根谷
見学地点の位置・概要    県道56号南濃関ヶ原線が合流する駒野交差点から国道258号を900mほど南下した羽根谷交差点を西進し、羽根谷沿いに上流へ向かう。さぼう遊学館の前を通り過ぎると、谷が西方と南方に大きく分かれる地点に第2駐車場がある。そこは砂防堰堤で堰き止められた土砂を平坦に整地して利用されており、そこから南方の谷をみると上流側に2つの砂防堰堤がみえる。そのうち手前の堰堤に比べて奥に(上流側に)見える堰堤は不揃いの巨石をやや雑然と並べてあるように見え、これが巨石積第一堰堤である。
見学地点の解説    この堰堤は1888(明21)年に完成した高さ12m、横幅52m、堤幅23.5mの砂防堰堤で、積まれた巨石の大きさが直径約1.5mにも及ぶことから巨石積堰堤と呼ばれている。ここを第一堰堤として、ここよりも約400m(さぼう遊学館から約150m)下流に高さ10m、横幅85m、堤幅425mの第二堰堤があり、直径約0.6mに及ぶ巨石が積まれている。当時の堰堤はおもに土を積み上げ、堤の天端と下流側の法面に石を積み上げる構造であり、その施工技術は現在でも立派に機能しており、いずれも国の登録有形文化財となっている。なお、両堰堤とも用いられている巨石はすべてこの付近の養老山地に広く分布している美濃帯堆積岩類の砂岩である。
ジオの視点    養老断層の活動により隆起しつづけている養老山地は浸食されつづけており、洪水時に土石流をともなって大量の土砂を運び出し、東麓に多くの扇状地を形成している。通常は穏やかな流れの川も、数年、数十年に一度起こるような豪雨で氾濫し、山麓部に甚大な被害を与えてきた。明治政府が近代土木技術導入のため招聘したオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケは木曽三川下流域の分流工事を手がけ、それに合わせて治山事業にも力を注ぎ、その指導により建造された砂防堰堤が羽根谷巨石積堰堤である。
写真 羽根谷の巨石積第一堰堤
(撮影:小井土由光)
写真 巨石積第一堰堤で用いられている巨石(レンズキャップの直径が5cm)
(撮影:小井土由光)
美濃帯堆積岩類
美濃帯は、飛騨外縁帯の南側にあってかなり幅広く分布する地質帯で、岐阜県内でも広範囲にわたる地域を占める。そこは、古生代石炭紀から中生代白亜紀最前期にかけての時期にチャート・石灰岩・砂岩・泥岩・礫岩などの海底に堆積した堆積岩類と海底に噴出した緑色岩(玄武岩質火山岩類)でおもに構成されている。下図に示すように、海洋プレートの上に噴出した海洋プレートの上に噴出した玄武岩質火山岩類は海底や火山島(海山)を形成して、その上にチャートや石灰岩・珪質泥岩などを徐々に堆積させながら大陸へ向かって年間数cmほどの速さで移動していく。海洋プレートは海溝部で大陸の下へ沈み込んでいくが、堆積物はいっしょに沈み込むことができず、はぎ取られたり、大陸側から運び込まれた砂岩・泥岩などとともに大陸側へ押し付けられ、混じり合って複合体(コンプレックス)を作りあげていく。こうした作用を付加作用といい、それにより形成された堆積物は付加体堆積物と呼ばれ、これまでそれらを総称して「美濃帯中・古生層」、「美濃帯中生層」、「美濃帯堆積岩コンプレックス」などといろいろな表現で呼ばれてきたが、ここではこれらを「美濃帯堆積岩類」と呼ぶ。それらは、それまで順に重なっていた地層が付加作用にともなって低角の断層を境にして屋根瓦のように繰り返して覆うように重なったり、複雑に混じりあったメランジュと呼ばれる地質体を構成し、整然とした地層として順番に連続して重なるようなことがほとんどない。そのため全域にわたり個々の地層名を付して表現することがむずかしいため、ここでは構成岩石の種類(岩相)によって表現する。これらの構成岩石は単独でも複数の組合せでもある程度の大きさを持つ地質体を形成しており、その大きさはcmオーダーの礫からkmオーダーの岩体までさまざまである。これらは岩相、形成時期、形成過程などの類似性から複数の地質ユニットに区分され、ユニット間は衝上断層で接することが多いが、その区分による表現はここでは用いない。
養老断層
濃尾平野から西方を望むと、養老山地が南北方向に延び、その東側斜面が壁のように立ちはだかり、ほぼ直線的な境界で濃尾平野と接している。その境界に沿って約40kmにわたり養老断層が延びている。養老山地から濃尾平野を経て東方の猿投(さなげ)山地に至る地形上の単位は「濃尾傾動地塊」と呼ばれ、東側が緩やかに上昇し、濃尾平野が沈降していく濃尾傾動運動で作られたものである。沈降していく濃尾平野と上昇していく養老山地との間に養老断層があり、その上下移動量は数百万年前から現在までに2,000m以上に達していると考えられている。沈降していく濃尾平野には木曽三川が運び込んだ大量の土砂が堆積しているから、その2/3ほどは埋められており、実際の養老山地東側の斜面では1/3ほどだけが断層崖として顔をのぞかせていることになる。



地質年代