項目 跡津川断層 あとつがわだんそう
関連項目 事項解説>活断層>飛騨地域>跡津川断層(高原川の屈曲)
地点 飛騨市神岡町土(ど)
見学地点の位置・概要    国道41号は神岡町土においてほぼ直角に曲がる。そこが見学地点であるが、交通量が多いために十分に注意して、状況に応じて適切な位置を確保して見学する必要がある。
見学地点の解説    高原川はこの場所でほぼ直角に曲がって富山方面へ北流していく。ここから高原川の上流を望むと、直線状の流路が南西へ向かって延び、南側の山腹斜面が少し陰となって見えにくいが、延長上に地形的な鞍部が見える。この直線状の流路に沿って跡津川断層が延びており、本来はまっすぐに流れていた高原川は、跡津川断層のたび重なる断層運動によってここから神岡町東漆山付近までの約2.7kmの間で水平方向にずれて2ヶ所でほぼ直角に折れ曲がる流路を形づくった。断層を境にして反対側が相対的に右へ動いているから、ここでの断層地形で示される跡津川断層は右横ずれ断層となる。
ジオの視点    跡津川断層は、富山県南部から飛騨市神岡町、宮川町、河合町を通り抜け、白川村の天生(あもう)峠付近まで、岐阜県の北部を北東~南西方向に約60kmにわたって延びる大断層であり、阿寺断層系根尾谷断層系などとともに日本を代表する活断層系の一つである。人工衛星画像でも一本の直線状の谷地形として明瞭に識別でき、河川流路の折れ曲がりや断層崖などの断層地形が各所に残されている。この断層は40万~70万年くらい前から活動を始めたとされているが、詳しいことはまだわかっていない。江戸時代末期の1858(安政5)年に起きて多大な被害をもたらした飛越地震はこの断層が動いたことで起きたものである。
写真 飛騨市神岡町土においてほぼ跡津川断層の上に立って高原川の上流側(奥)をみた景観(高原川の流路がほぼ直角に曲がって右方へ流れている)
(撮影:小井土由光)
写真 飛騨市神岡町東漆山において国道41号の対岸山腹にみられる大きな崩壊地(この付近での跡津川断層はこの崩壊地とその尾根の裏側にある谷沿いの2本に分かれて通る)
(撮影:小井土由光)
阿寺断層系
阿寺断層系は、中津川市馬籠(まごめ)付近から北西へ向かって、同市坂下、付知町、加子母(かしも)を経て、下呂市萩原町の北方へ至る全長約70kmにも及ぶ日本でも第一級の活断層系である。ほかの大規模な活断層系と同様に、複数の断層が平行にあるいは枝分れして走っている。それらのうち、おおよそ中津川市と下呂市の境界にある舞台峠付近より南に分布する断層群を阿寺断層と呼び、それより北に分布する断層群にはそれぞれ別の名称がつけられている。大きくみると、阿寺断層系は、その北東側にある標高1500~1900mの山稜部を持つ比較的なだらかな阿寺山地とその南西側にある標高1000m前後の美濃高原との境界部にある断層帯で、両者はもともと一続きの地形であり、地形上の高度差700~800mがそのまま断層による縦ずれ移動量を示すが、それよりも10倍近くの大きさで左横ずれ移動量をもち、それは断層を境に河川の流路が8~10kmも隔てて屈曲していることに表れている。
根尾谷断層系
「根尾谷断層系」は、全長約80kmにもおよぶ長大な活断層群の総称であり、何本もの活断層で構成された長大な活断層帯を形成している。それらのうち、岐阜・福井県境の能郷(のうご)白山(標高1617m)付近から根尾川沿いに南下して岐阜市北端部へ至る、おおよそ1本の断層線で示される活断層を「根尾谷断層」と呼ぶ。根尾谷断層系の活断層にほぼ沿って1891(明24)年に動いた地震断層群の総称を「濃尾地震断層系」と呼び、そのうちの1本として根尾谷断層も動き「根尾谷地震断層」を形成した。根尾谷断層系は、何回も活動を繰り返してきた中でとりあえず最後の大きな活動として濃尾地震断層系を形成し、そのときの震動が濃尾地震である。根尾谷断層系を構成する各活断層は今後も活動し続けるはずであり、決して最後ではないから、濃尾地震断層系は“とりあえず最後の活動”となる。
飛越地震
飛騨北部・越中で被害が大きく、とくに岐阜県内では跡津川断層沿いに被害が集中しており、全壊319戸、死者203名とされ、山崩れも多かった。とくに断層の南東側に比べて北西側で家屋の倒壊が多く、断層が北側から南側へ突き上げて動いたために北東側で震動が大きくなった。富山県側では、常願寺川の上流が山崩れで堰き止められ、のちにそれが決壊して富山平野で大洪水を起こした。


地質年代